00 ネパールトレッキング 平成6年4月27日より5月8日
アンナプルナサウスの展望  制作 栗原 弘

目   次
 一 序
 二 香港 ...........4月27日
 三 カトマンズ ....... 4月29日
 四 ポカラ ......... 4月30日
 五 トレッキング.......4月30日
   1.ビレタンティからティルケドンガへ
   2.ゴレパニ峠へ ............
   3.プーンヒル ダウラギリーの展望
   4.ゴレパニからガンドルンへ ...
   5.ガンドルン アンナプルナ南峰の展望.
   6.再びビレタンティへ.....5月 3日
 六 ポカラの観光.........5月 4日
 七 タクシーコミツティ ......5月 5日
 八 カトマンズ スワヤンブナート
 九 帰路 香港.......... 5月 7日
 十 おわりに
 * 資料 
 * 地 図

参加者 生島 敏彦、栗原 弘、 鈴木 信夫、和田 俊春 (アイウエオ 順) 四名  































01 

 2月頃、「ネパールに行かないか」と言う話が生島さんより持ち上がった当初は、海外旅行など全く思ってもいなかったが、彼の熱意に動かされてその気になり、地図や資料をあさり始めたのは3月も末の頃であった。8,000 メートル級の山はとても無理で、その山を見て来よう、見える所までトレッキング(登頂を目的としない山歩き)をしようと言うことである。メンバーは朝日生命研修二期の生島、和田、鈴木さん、それに私の4人である。
 やっと手にいれた地図で粗案作りを始めた。ポカラ(カトマンズ西方、ネパールの中央の観光地、標高900 メートル)から入ってアンナプルナ山群(最高峰は8,000 メートル級の1峰)展望のトレッキングが決まり、アンナプルナベースキャンプは無理でもマチャプチャレーベースキャンプの4,000 メートル位まで登ろうと言うものであった。初めての土地でもありガイド、ポーターは付けたいとの意見もあったが、一度ガンドルンまでトレッキング経験のある生島さんの話でとりあへずガイドはなしとした。行程時間割については5月連休を利用し、香港経由カトマンズ入りポカラまで空路を利用する。我々の足で歩行6日間が精一杯と言うことで、検討の結果ベースキャンプまで入ることは無理と判断、別ルートを取ることにした。
   ポカラから可能な限り車で入り、ビレタンティまで入れれば歩行2日間が節約できるが、車で何処まで入れるか情報がまちまちで1日は取らねばならない。
最終計画は6日間のものとなった。ビレタンティ、ウーレリィ、経由で2日行程でゴレパニ峠 に入る。第一の目標はここからプーンヒル(3,080m)に登り、ダウラギリー山群の展望である。ゴレパニからダラパニ峠経由でガンドルンへ2日間、第二の目標はここガンドルンからのアンナプルナサウス、マチャプチャレーの展望である。ガンドルンからランドルン、更にダンプスを越えフィディ、ポカラへ1日乃至2日間と言う行程が決まり、合計で6日間、タクシーが奥まで入れば5日間のギリギリの計画であった。
 ネパールは6月より雨期に入り天候が問題となった。雨期は殆ど視界不良、5月は運が良ければ見えるが全期間見えない可能性もあり、一時は中止の方向に進んだが、ダメでもともとチャンスを無くしたくないと言うことで実行となる。装備については、平地の昼は真夏並、山の朝夕はセーターが要る。寝袋、セーター、ヤッケ叉はジャンパー、食料はバッティ(小屋)泊りで心配なく、コンロ、食料は各自自由とする。


    



















































02 香  港 4月27日

 香港へは4時間のフライト。成田10 時発で時差を1時間引き1時頃着く。暑い、香港の4月27日は空港を出ると31度の真夏である。タクシーでキンバリーホテルへ、朝日生命香港駐在の島影氏の紹介のホテルである。12階の部屋に落ちつく。
高層ビルが整然と建ち並ぶ様は東京よりも立派な都会と言う印象だったが街並に出て余り変わり無いなと言う気持ちから騒々しい町、汚い町と言う印象に変わった。
                 九竜半島より香港島の高層ビル街を望む ノウザン通りを南下すると東芝やらソニー、伊勢丹とか日本の懐かしい名前が目につく。ここはグルメが目的ではないので安いレストランに入る。越南と書いてあるベトナム料理店で、片言の英語でビール、ヌードル、ソーセイジ等注文する。サンミガールと言うビールは殆ど日本のビールと変わらない
、楽しい夕食がとれた。和田さんが果物屋でドリァンを買う、高貴な果物とのことでホテルに帰って食べたがどうもぬめりと臭みが強く無理してやっと飲み込んだ。慣れると止められないおいしい味だと言うがどうも馴染めそうにもない。夜、11時頃、都合で遅れた生島さんがホテルで合流、これで全員揃い一安心。
 香港ドルの両替は東京銀行が1万円で香港ドル750ドルで前日の空港での両替よりレートが良かった。円が強くなっていることを実感した。市中の小さな金融機関の両替は同じ日に700ドルを割っていた。円売りの手数料とドル買いの手数料が2回引かれるのだそうだ。

       
























03 カトマンヅ 4月28より29日

 28日夕方、香港空港で米ドル 90 ドルをネパール通貨4,000 ルピーに替え、午後6時近くロイアルネパール航空でカトマンズに向かう。5時間の所要時間であるが8時になっても9時になっても日が暮れない。11時頃カトマンズ着で空港はすでに闇に包まれている。時差2時間15分を引くとカトマンズはまだ 8時台である。8ミリカメラの持ち込みはビザに記入され、手間取った。
 宿は決めていないのでインフォメイションに立ち寄りツィン2室を10ドルで決め、そのホテルに向かう。タクシーは20年前の日本のコロナである。宿の案内人もこのタクシーに乗り込むので運転士を入れて6人乗車、あへぎながらカトマンズの町を走る。ホテルは比較的物価の安いといわれるタメル地区のフジゲストハウスである。案内人はそこの主人の弟と言うことで車の中で中腰で立ったまま上手な日本語で話し
かける。「あなた、2、3年前にフジゲストハウスに泊まりましたね」生島さんに尋ねている、余程印象が強かったのだろう、懐かしい再会の場が出来る。
ホテルのママさんは日本に留学したことがあるとか、ご主人がカトマンズで日本語学校を経営しているだけあって気持ち良い日本語で我々を迎えてくれた。客の殆どが日本からの若者で占められている。ここのサロンは日本の延長のような気安さで、情報交流の場となっている。ここの電源プラグコンセントは3P で丸2P のビデオ充電器にはつながらないと諦めていたが、各部屋の電源スイッチの隣に丸2P コンセントのあることを彼等から教えて貰った。
 29日はカトマンズ見学で暮れた。この日にやる事はトレッキングパーミッション(許可証)を取る事だけなので市内のバザール(市場)やら寺院を巡る。金 持ちと見られている日本人はすぐわかるらしく、幼稚な日本語でしつこく付きまとう。インディラチョークのバザールで横笛(10ドル)と、トレッキング用の帽子(200ルピ)
草履(50ルピ)を買う。一ルピ2円50銭で換算すると安いように思えるが月給3000ルピと聞くと必ずしも安
い買い物ではなかったようだ。ダルバール広場の旧王宮やシヴァの寺院はさすがに歴史を感ずる。そこに巣くって生活している人々が居るのには驚かされる。道路の真ん中を大きな黒牛がゆったり歩いている。
 イミグレッションオフィースでトレッキングの許可証を取らなければならない。申請書に必要事項を記入していると親切そうなネパール人が手伝って上げますと言う素振り、書類を渡すと慣れた手付きで記入を済ませ手数料を10 ドル請求してくる、手数料は5 ドルと聞いていたのでおかしい、生島さんが「高すぎる」と言って書類を彼らから取り上げた。観光客に付きまとう私設代書屋だ。代行手数料5ドルを取られる所だったが彼のおかげで無駄な出費を出さずに済んだ。白人は皆各自で手続 きしている。人の良い日本人だけが金に任せて贅沢をしてるように見え、少し恥かしい想いが走る。
      カーラ.バイラーヴ(シバの女神)
タクシーは我慢強く牛の通過を待っている。ヒンズー教では牛は神聖な動物なのだ。小型三輪が多いのは日本の終戦直後を思い出される。自転車輪タクと言うかサイクルリキシャにいたるところで声をかけられる。

 ダルバール広場


 三階の寺院のより
       ダルバール広場を見る


旧王宮裏手の広場 朝食のチベットパンにミルクティは比較的食べやすかった。遅い昼食は中華飯店へ、餃子、春巻き、ヌードル(焼きそば)等慣れてるせいか結構おいしかった。夕食はホテルの近くのインド料理店。カレーはご飯がパラパラと乾燥したもので水のような流動性の高いカレーがかかっている。食べられない事はないが馴染まない。

 商店街は賑やかだ。横笛を買った。


     












































04 ポカラ 4月30日

 30 日早朝ポカラへ行くためカトマンズ空港へ向かう、国内線はくつろいだ雰囲気の田舎の駅を思い出させる。オレンジ色の鮮やかなサリー(ネパールの衣装)を つけた3人娘が異国情緒たっぷりで美しかった。(写真)ここで朝食をトーストとティ20 ルピ(50 円)で済ませる。
山の頂上まで段々畑として耕している様子が、プロペラ機の窓から手に取るように見える。ポカラが近くなると雲の間からヒマラヤ山群が見えると機内がざわめき立つ、日本人ツァーの添乗員が山々を説明している。
夏の空気を通して白いかすんだ山並みが中空に見える。ヒマラヤまで来たのだと言う実感が湧いてくる。ポカラ空港は野原の滑走路に一軒家と言った感じ、埃をもうもうとあげながら着陸する。 9 時半、荷物を受け取りチェックもなく空港を出る。
 空港には「フジゲストハウス」の弟さんから紹介を受けた「ニュポカラロッジ」の人が待っている筈だ。和田さんがいち早く見つけ、釣り道具等荷物を預けて、車でどこまで入れるか聞いた。ビレタンティのニューブリッジまで入れるという、ラッキーだ。大分行程が節約できる。
連れて来たタクシードライバーと交渉する、40 ドルの提示。ここでもっと交渉すべきだつたのだが、
歩行2日間を縮めて二時間ちょっとで行ってくれる、日本円で4,000 円と頭で考えて了承した。(これが後で問題になるとは?)
  15年前のコロナだと言うが日本ではとっくに廃車の代物、車中の人となる。「アイ、ライク、ミュージック」と得意顔で運転手はカセットテープをかける。助手席前のポケットに車用カセットデッキが入っている。彼にすれば高価な品だろうがテープ伸びノイズが多い。
フィディを過ぎ山間部にはいる前で彼は車を止め「チェックポイントで20 ドル要る」と言う。40 ドルの一部だと思い、20 ドルを支払った。我々を車の中に置いたまま彼は小屋の前で手続きを済ませると又運転を続けた。尾根道にとりつき、つづら折れの登りに入る。「私のボスがあそこに居るんです」、彼は支払の説明をしている。
 見晴らしの良い尾根にとりつき「向こうの尾根がダンプスの部落」と生島さんが説明してくれる。ノーダラの部洛を通過、又運転手は車を止めた。トレッキングパーミッションのチエックだと言う。彼はここで又20 ドル請求した。ちょっと不審に思い後で支払う旨伝えると彼は一人で事務所の中に入った。
子供達が数人集まってくる。十才位の女の子が掌の上の葉っぱに苺のような小粒の実を一杯のせて窓から差し出す、買ってくれと言うのだ。ノーと答えても根気よく差し出す。うしろの方の男の子が「こんにちは」と元気良く言う、日本語に一同びっくりしたり驚いたりである。それにしても学校はどうしてるのだろう。
「ナマステ(こんにちは)」と言うと「ナマステ」と元気良く返ってくる。英語で話しかけてくる。素朴さを感ずると共に苺を買ってくれと言う貧困さも感じた。
 運転手が戻ってきて又ドライブは見晴らしの良い尾根道を快適に走った。2 時間経過、道が沢筋に下り、回り込む頃、尾根向こうがチャンドラコットだと説明があり、ビレタンティも近い。沢と沢とが合流する中腹に舗装道路が巻き込んでいる辺りに小屋があり人々がたむろしている。バスストップらしい。タクシーはその手前で止まる。ザックをトランクから受取り、「残り20ドル」と声を出してお金を渡す。
「モアー40ドル」と運転手。「20 ドルと20 ドルで40 ドル、OKね」片言英語でのやりとり。「わたしの分が無いではないか」としきりに繰り返す。交通チェックの20 ドルとトレッキングパーミッションの20 ドルは別料金だと言うのだ。合計で80 ドル(8,000 円)は1人2,000 円になる計算である。騙されたと思いながらも、先を急がねばならないのだからと彼の話にOKをする。


     




























0501 トレッキング 4月30日
1 ビレタンテッィ から ティルケドンガへ

 11時50分、これからは自分の足だけが頼りのトレキングにはいる、ザックをキチッと背負い吊り橋の沢へと急いだ。橋を渡り急な登り斜面に3、4軒の部落がある、ビレタンティの入り口のようだ、チャイ(ミルクティの様なもの)を注文してひと休みする。旨く行けば今日中にウーレリィまで行けるかも知れない。部落の中心まではなだらかな道が続く。緑濁した大きな急流、モディコーラ(コーラは川の意)に架かる吊り橋を渡ると標高 1,000 メートル、ビレタンティの部落の中心である。
石畳のなだらかな階段状の道がしばらく
続く、欧州人らしい4、5人のトレッカーの群れにあう。トレッキングパーミッションのチェックポイントでは制服をつけた役人が一人、大学ノートに国籍、氏名、目的地等を記入させ、許可証にチェック済みのサインをし、済ませる。
カラン、コロンとのどかな鈴の音が聞こえる。その方向から十数頭のロバの隊列、隊商だ。人は見あたらない、ロバだけが素直に鈴の音を響かせて降りてくる。袋に一杯の荷を背負ったもの、空身のものが入り交じっている。隊商は急峻な山道では欠かせない交通手段のようだ。最後に2人の馬追いが声を掛けながら続く。珍しさの余り立ち止まってこれらを見送る。遠くまで来たんだなぁと言うエキゾチックな感慨がわいてくる。岩石の多い砂利道を
モディコーラの支流、ブルンディコーラ沿いに登る。ゴレパニ、プーンヒルへの道である。
堰止めた淵で泳いでいる村人をわきに見ながら、やがて沢を離れ2、3 軒の集落を過ぎた頃から登りが少しずつきつくなってくる。    
 真夏の太陽は袖をまくった腕にじりじりと照りつける。息が苦しくなつてくる、肺の一部を切除してどこまで挑戦できるかと言うチャレンジ山行とも考えていたが、みんなに迷惑を掛けてはいけないと言う気持ちがよぎる。汗が止めどなく流れてくる、まだ頑張れる。
 前方に部落が見える。スーダメで遅い昼食を取る。腰をおろし、板を敷いた侭のようなテーブルにザックをおろしホッとする。ビデオカメラの時計が5 時を大分過ぎている、日本時間のままだ。ネパール時間で2 時頃である。メニューは横文字でどんな内容かよく分からない、ティ、ブレッド、ヌードル、ベジタ
ブル、とにかく汁物が欲しい。カレーヌードルに決まる。何歳だろうか、老婆の様にに見える女に、会計を担当している鈴木さんが、台所までついて現物を見に行く。
「インスタントラーメンだよ」と言う声に一同安心する。カレーヌードルは香辛料が日本とは大分違うようだ。
3 時半、一登りでヒレーに着いた頃、雨がぱらついてきた。近くのチョータラ(石畳を腰掛け易く積んだ休憩場)でザックカバーやら雨具をつけて、歩行を続ける。大粒の雨が30分ほどで小やみになる頃ティルケドンガに着いた。ブルンディコーラの渓流と迫り出した山並で遠景は余り見えない。
 4時を回った時計に誰言うとなしに今日の宿はここに決まった。疲れているのだろうか、歩行時間は出発から4時間を過ぎていた。
    宿の前を隊商の列が通る。
  裏山の高台に登り辺りを見渡す。はるか下、見晴らしの良い所に屋根のついた今日の宿の食堂がある。北西尾根の急斜面にへばり着くような部落が見える。ウーレリーである。こんな山間部でも農業をして暮らしている人々がいる。崩壊を防ぐために積んだ石畳の畑がきれいに縞模様に見える。年老いたら隣の家まで何十メートルも何百メートルもの登り降りに耐えられるのだろうかと思う。ここの人達の頑張り強い、人の良い民族性を感ずるし、貧困に耐えて頑張っている姿と自分を対比してみる。
  明日はあの部落までの1時間は急登である。尾根を巻いた向こう側にゴレパニ峠の山並が見えるだろうと想像する。
 この宿はトイレ、シャワー付きである。トイレは日本式と同じで終わった後そばに置いてあるバケツの水で押し流してしまう水洗式である。シャワーは石を積んで造った小屋の天井の桶から水を噴射する仕掛である。
夕食はビール3本とフライドエッグ、チベッタンブレッド(小麦粉を練って薄くのばし油で揚げたもの)オニオンスープ、パンプキンスープ等、スープにして食べた方が無駄がないのかも知れない。この家の子だろう、10才位の可愛い女の子がウェイトレス役で、美味しく食べられた。ローソクが運ばれてきて良い気分にひたれる。
食堂でぶらぶらしている20歳ぐらいの男が勝手に英語で話しかけてくる。彼はポーターだと言う。ゴレパニまで
の明日の予定を知ると「200ルピで使ってくれ」と言う。二つザックを持って貰うと助かるのだが、彼は400ルピで良いと言う。ネパールでは値切れと言う言葉を忘れていた我々は了解した。明日の急登はこれで一安心だ。ビンバードルと言うこの男はランドルンの近くトルカの出身とか、サインを求めると丁寧なネパール語で自分の名前を書いた。
電気のない夜は早い、ツィンの部屋に戻りローソクの灯でおしゃべりをする。疲れが出てシャワーを使う気にもなれず8 時頃、シュラフ(寝袋)の中に入る。


       































0502 トレッキング  5月 1日
2 ゴレパニ峠 へ

    テルケドンガの朝食、ポテトスーブとチベットパンは快適だった。4人のザックを調整して軽くし、まとめた2つのザックを細紐で結び付けビンバードルは上手に背負った。 5月1日、我々は7時に出発した。ブルンディコーラの吊り橋を渡ると急な登りである。ここではあらゆる所に、階段状の石の道、チョウタラ(休憩場)等、石が上手に使われている。行き来するロバの隊商はカランコロンとのどかな鈴の音を響かせながら上手なステップで岩
を下りていく。汗が一枚切りのティシャツに滲んでくる。
息が切れる。今が一番きつい時だ、これを過ぎたら楽になる、と言い聞かせながらマイペースで登る。気をつけていたロバの糞も数も多くなり「踏みつけても気にならなくなった」と和田さんは言う。避ける気力もなくなってきたと言いたいが黙っていた。
「先に行って下さい」と言ったビンバードルがついてこない。ちょっと不安が
よぎる。2、3 回の休みでウーレリィ入り口に着いた所で女性の3人連れにあう。アイルランドから来たのだそうで、気持ち良く一緒に写真を取らせてくれた。ビンバードルが追いついてきた。出かけようと言っても彼女達と話している。かまわずに先を進める。

 ウレリィの部落で学校に行く子供達にあう。母親に追い立てられて不承不承出かける子供もいる。
 急登を過ぎて振り返ると美しい縞模様の畑が見える、山岳農業の根気強さを感ずる。


 登りが続き尾根を巻きながら、いつの間にかバンタティの部落にはいり、
        チャィの小休止を取る。



 隊商の列としきりにすれ違う。北の方がディオラリの尾根らしい、
    あの向こうがゴレパニ峠だ。

 バンタティから又沢筋にはいる。沢と平行して、道が走る辺り、澄んだ沢の水で汗だらけの顔を洗う。小滝が静けさを打ち消す、飲めるように澄んだ水が美しい。「絶対に飲めいよ」お互いに戒めあう。「三尺流れれば水はきれいになる」と言われるが汚水が上流で使われている、ここは生活圏なのだ。
 橋を渡り、小沢を高巻きして一登り、2 軒ほど宿のあるナンゲターティについた。水が欲しい、12 時を大分回った頃、取り付きの店に入り、チャィをワンポット(小型ヤカン一杯)を取りあえず注文する。昼食のチベットパンは大分馴染んできた。あの尾根が切れる辺りがゴレパニ峠と推測できる。一時間ほど休憩、アイルランドの3人娘が後から追い付いて来た。ナンゲターティを出ると、石楠花の林に入る。もう時
期は終わったらしく咲き遅れがわずかに花を競っている。
鈴木さんが一生懸命シャッターを向ける。10メートルほど前で水牛の黒い大きな体が2頭草をついばんでいる。



その樹木の間からプーンヒルらしいピークが見える。
今回の目標の一つの山だ。

 3 時頃、石の多いカール状に開けた所、数軒のロッジが見える所に着いた。案内看版にはゴレパニとある。峠下のゴレパニ入口に着いたのだ。峠の尾根から一段と高くプーンヒルへの頂上に続いている。和田さんが鮮やかな石楠花を一輪胸に付けている。周りに大木といえる石楠花が目だって多い。一登りでゴレパニ峠、ここでトレッキングパーミッションを済ませる。
「8,000 メートル級の山が見えたよ」先行していた生島さんが興奮して戻ってきたがその時はもう雲の中だった、案内看板に画かれた山々は美しく見えていたが。明日早朝のプーンヒルに期待が走る。2,840 メートルのゴレパニ峠から3,080 メートルのプーンヒル展望台だ。またまた遅れていたビンバードルが追い付いてきた。宿はプーンヒル寄りの「スーパービューロッジ」に決めた。
 食事前ビールで賑やかしていると
「日本からですね」と米人らしき2人が寄ってきた。愛知県からでトヨタ自動車に勤めていると言う。流暢な日本語で話しかけてくる。安心した我々は更にメーターが上がり、哲学者のような名前の「ダンティ」と左利きでない「レフティ」の二人を交えて日本の話しに花が咲いた。昨日遅くポカラからビレタンテイまでタクシーで来たと言う。
「タクシーはいくらでしたか?」の問に600ルピー(100ルピーは2ドル)とのことだ。
 ーやられた、彼らは12ドルで来ている。我々は80ドル支払ったのだ。ー
頭の中を悔しさがめぐる。自分の恥を話すようでそれ以上は口を濁した。
「アイ、キャン トライ ビーア」、ビンバードルが言い寄ってくる。我々は顔を見合わせた。どうもこの助平なネパール人は女の子と見ると一緒についていきたがり、我々から離れてしまう、ポーターとしては失格だから明日は止めようと言うことになっていたのである。が日本人の不名誉になつてもと仲間に入れ、杯をあげた。
 400ルピをビンバードルに渡して明日はポーターは必要ないと告げた。困った顔を見せる彼。一緒に歩かないで別行動は困るし、明日は降りが多く必要ない旨強調した。
「100ルピ値引きするから使って欲しい」。人の善い日本人はまたまた折れてしまう、但し明日一日限りということで。
 部屋はツィン二室を生島 栗原、 和田 鈴木とわけた。ランプのもとでの夕食はスパゲッティ、春巻きにスープ、大蒜に近い香辛料が今迄よりも特にきつく一口、口にしたがどうにもならない、無理矢理と言った感じで食べた。非常食を持ってくればと悔やまれた。一口羊羹が貴重品だ。
 「おっ見えるよ」闇に包まれた頃鈴木さんの声で外に出る。雲の間にピンクのピークが見える。名前は分からないが方向からアンナプルナサウスと決めてしまっている。後で調べると「ニルギリ」に思える。ひとしきりの興奮の後、明日のプーンヒルは一時間の登り4時半スタートを確認しあう。何もすることはない、寝袋の中にはいる。


       





























0503 トレッキング 5月 2日
3.プーンヒルとダウラギリー展望


  5月2日 セーターを着込んで、4時半、足元をヘッドランプで照らしながらプーンヒルに向かう。荷物はないのに気がはやるのか息が切れる。自分のペースで遅れながら頂上へ、薄闇になってくるが北の空は曇である。
                  「あぁ、ダメか」 ため息が一頻り。
 
やがて雲間にピンクの山肌が光って見える。
「アンナプルナ南峰だ」誰かが言い誰かが追称する。地平線の下の太陽が8,000 メートルの山をピンクに照らしている。近くの山々が遥かその下で黒い山並を見せている。又その下にプーンヒルの稜線上に黒い2人のシルエット、生島、和田さんが双眼鏡で山を眺めている。鈴木さんは一生懸命シャッターを押している。束の間で
又8,000 メートルは雲の中に隠れてしまった。
  段々と白みがかりプーンヒルの人々の顔が見えるようになってくる。展望台の所に懐かしい顔が、夕べの「哲学者」と「左利き」である。
 興奮した顔が動く。ビバードルもいつか我々のもとにいる。東の空が白み、ピンクからダイダイに変わってきても雲は取れない。
「もう、下りようか」の声に6時過ぎロッジへの道を歩む。今迄見えなかった石楠花の巨木が丘のあちこちに見事な赤い花を枝一杯につけている。ラリーグラス(石楠花)はネパールの国花だそうだ。鈴木さんはシャッターに余念がない。プーンヒルは今が石楠花の最盛期なのだ。
  半分ほど下りた所で
「ダウラギリーが見える。」誰かの声がする。近くの山並み、その遥か上に氷の山と言うか、純白の山が、けづり取ったような絶壁の山「ダウラギリー」がひときわ高くそびえ立っている。
神々しい、自分が威圧されるような雄大さが、今、遥か下の太陽に照らされピンクに浮き上がっている。「ワンダフル」「すばらしい」の声が飛び
交う。あぁこの為に私はここに来たのだ。
 さっき頂上でみたピンクもダウラギリーだった。立ち止まっては見、見ては歩く。爆音を響かせて飛行機が行く、ポカラからダウラギリー山群への「マウンテン フライト」とビンバードルが説明する。飛行機の吸い込まれる彼方に「ニルギリ」その右手に「アンナプルナ山群」が見えるわけだが今は雲だけが見える。明日のガンドルンを期待したい。


        





































0504 トレッキング  5月 2日
ゴレパニからガンドルンへ  

 ロッジ7時スタート予定が8時近くなり、
           ビンバードルにザックを頼んでスタートした。
 ガンドルンへの道は峠道から小学校の校庭に入り、ディオラリーへの広い尾根道の登りへと続く。美しい石楠花の林の中をカメラのシャッターを切りながら進む。林の開けた広尾根の中腹のチョータラで一休み、雲間にピークが見える、ズームアップすると「ニルギリ」の峰が美しい姿を見せる。
 やがて木の根を張り巡らせた痩せ尾根に出る。雲が厚く山並の展望は得られない。右前方の急峻なピークを巻くように進むと急下降にはいる。小さな小屋が一軒真下に見える。
 ディオラリィだ。石楠花の林は美しく、声を掛けることしきりである。
 この小屋からバンタンティ迄の下りは完全な沢筋の中の急下降である。雨が降ったら川となる所でひとたまりも無いであろう、想像するとぞっとする。逃げ道はあるのだろうが。積雪期は非常な技術が要求されると思われる。下りは膝を
痛める。小股歩行とニークッションは慣れている積もりだが結構な下りである。そこを逆にバンタンティから登ってくる一行がある。日本人ツァーだとひと目で分かる。2、30名のパーティで年輩者も混じっている。
「頑張って下さい」思わず声を掛ける。今朝ガンドルンを発ったそうだ。
「アレ!やぁ会いましたね」和田さんが奇声を上げている。中年女性との再会である。この女性は香港カトマンズ空路で
和田さんの隣の席に座った人でフライト中話が弾んでいた。その様子が私のカメラに納まっている。トレッキングコースは聞いていたようだがこんな所で会うとは?今日我々がゴレパニにゆったりしていればあえるかと言う程度に思っていたが。お互いの健闘を期して別れた。
 それにしても逆コースは難儀で我々の選択は良かったと自己満足。
 沢が切り立った絶壁の下から開けたところ、バンタンティに11時頃ついた。バンタンティの地名は昨日通過したゴレパニの手前のバンタティとNが一字入るだけの違いである。距離的に近いのかも知れない。
 子犬ほどの大きさの山羊の群が絶壁の下の平地で草を食べながら、中年の女性にまつわりつき、甘えている。バッティ(小屋)が2軒ほどある、(当初プーンヒルでゆっくりしここで泊まる予定であったが大分時間が節約できた)チャィで小休止をする。ビンバードルは離れず一緒についてくる。
 左尾根を少し登るとチョロンコーラの吊り橋を目指しての急下降である。三点確保(手を岩や木につかまり三点以上で自分の体を支える)を要する様な下降をしばらく続けるとチョロンコーラの吊り橋につく。自分の体の2、3倍もありそうな荷物を頭と腰で支えて背負った強力が2、3人吊り橋を通過する。あのきつい登りをと思うと、その強さに驚く。今日のコースはロバの隊商にまったく会っていない。ロバの通れない登り降りと考えられる。チョロンコーラの水で体を拭う。
 吊り橋からタラパニ峠までの一登りが今日の一番きつい登りと覚悟を決めている。現地人の強力の下りに会うと荷物の大きさに思わず道を空けてしまう、日本では上り優先などと言っていられない。つめの沢筋が急に開けて明るいタラパニ峠に着いた。12時50分である。
 晴れていればアンナプルナ南峰やマチャプチャレの山が見えるわけだが北東の空は雲ばかりである。子供達が賑やかに大勢で遊んでいる。素朴な遊びで、子供の頃遊んだ「手拭い落とし」に似たゲームをハンカチで遊んでいる。
 のんびりしているのか、1時間もしてやっと注文の食事、パンケーキとスープが出された。
 ビンバードルの食事はまだまだ出来そうもない。
 後発を約して4人はガンドルンへ向かう。林の続く広い尾根の下り、鼻歌まじりに進む。途中で奇声を上げている人にびっくり、野生の猿がいるからと教えてくれる。枝を伝って2匹の猿がしっかり確認できた。灰色の毛並みに顔のまわりを長い銀髪で囲まれていて美しい。
尾根の南側に回り込みしばらく下ると一軒のロッジがあらわれる。40才位の母と20才ぐらいの娘が庭に腰をおろしている。娘に見えたのは実は嫁さんで赤ちゃんにおっぱいを上げている。生島さんがのぞき込んでパイパイと言うとにこにこしている。「ジャパニズ セイ パイパイ」と言うとパイパイと繰り返す。純朴な人達である。
 一休止の後、美しい小滝のある沢を右手に下りる。大分なだらかな道が続き、もうガンドルンも近い。   雲が開けて白い峰が見える。誰かがアンナプルナサウスと言っている。4人が盛んにカメラを向ける。この分だと明日の朝はきれいに見えることだろう。
 遅れていたビンバードルはまだ追い付かない。ガンドルンに入っての分かれ道で彼を待つことにする。彼が雲隠れする不安はまったく無い。ザックを猫ばばする不正利得より200 ルピを大切にする男のように思えてきた。
 追い付いてきた彼は自分の知っているホテルを盛んにすすめる。生島さんは以前ガンドルンの「サクラホテル」に泊まった事があり、そこはあまり景観が良くないと言っていたが、宿はその場次第と考えていた。ビンバードルがあまりしつこいので、生島さんを指して、彼は以前ガンドルンに来ているので彼が決める、と言うと、今度は生島さんに交渉を持ちかけた。
 結局ホテルの中を見てから決めると言う条件で、彼の示した「ミランホテル」の下見をし、そこに決定した。自分の目で確かめる事の重要性を生島さんは強調した。快適なホテルだった。夕食はライスにベジタブル、ご飯は真っ白でサラサラだった。
 ここのホテルは日本人が良く来て、某大学の何とか教授が良く見える事を主人は誇らしげに片言日本語で話していた。シャワーは今までのように水ではなく、指定した温度のお湯が出て十分汗を流す事が出来た。


        














































0505 トレッキング  5月 3日
ガンドルン アンナプルナ南峰の展望

 マチャプチャレの尖った異様な山容が見たくて、5時頃、低い山が墨絵のように少しづつ白みかける頃起床、ミランホテルの庭に出る。 5月3日、快晴だ。アンナブルナ南峰が早々と真っ白な姿を見せている。その右にヒウィンチュリー、更に右のマチャプチャレーは逆光気味の黒い尖りを高く見せている。
 日の出が近くなるにつれて、アンナプルナサウスは白から黄金色に陽の光をうけて輝いている。宿泊客も何人か庭に下りてきた。
 それぞれがカメラのシャッターに、あるいは双眼鏡に余念がない。一瞬美しい山容を見せたマチャプチャレーも、日か登るにつれて逆光で黒くなってくる。ダウラギリがピンク色だったのに対し、アンナプルナは快晴のためか、陽の当たるところが黄金色だ。
 「もっと見晴らしのよい所に行こう」 誰言うと無く4人はガンドルンの目抜き通りを北に向かう。目抜き通りと言ってもここは斜面の部落で2人並んで通るのがやっとの石畳の道だ。やがて展望の良い草地に陣取る。  近くの農家で向かい合った2人が交互に棒で地面をたたく音が鈍く響く、麦打ちだ。6時、こんなに早くからと、びっくりする。兄妹だろうか、5、6才の娘がうす汚れた布をまとって近づいてくる。一緒に写真を取る。
 大分明るくなり、ガンドルンの部落が傾斜地に開ける。東に目をやると、はるか下にモディコーラの沢筋が黒く深い、対岸の斜面にへばりつく様な部落が見える。ランドルンだ。コーラ(川)に降り、あそこまで登るのは結構 きつそうだ。
 最初の予定ではこの沢を登ってチョムロンへ、更にマチャプチャレ、ベースキャンプへと、更に上流へきつい登りを行くはずだったが、変更した帰り道の今はゆとりを持って眺められる。ガンドルンからは東のモディコーラに迫り出した北正面の尾根をまいて、沢に降り又登ってチョムロンだ。
その尾根道がかすかに見える。それから先、北の彼方のマチャプチャレベースキャンプはいくつかの尾根の先の霞の中だ。黒い尾根の重なる遥か上にアンナプルナ南峰が聳えている。朝日に映えてなお白く、くっきりと見える。
 7時頃ホテルを出る。別れ際、ビンバードルは「来年も又来て下さい」としきりに声をかける。「メィビー」と生島さんは答ていたが、良く仕えてくれたと思う。きつい下降も楽に下れ、楽しいトレッキングが出来たのも彼のお陰である。

下はオールメンバー


         







































0506 トレッキング 5月 2日
再び ビレタンティへ

 登り降りの多いランドルンから尾根越えのダンプスの経路は丸1日を要し、更に湿度の高い5月の空気は山の展望をさえぎりメリットが無いので、これを変更して、今日は短縮コースにする事が昨夜同意済みである。
 今日は振り出しのビレタンティへモディコーラ沿い降りだ。快適な降りである。10キロ余のザックも苦にならない。振り返ると点在する住居が稜線上に高く見える、その奥にひときわ高くアンナプルナサウス
が、並んでウィンチュリーが我々を見送ってくれる。黄金色は消えて、純白な姿で振り返る度にじっと見ていてくれる。しばらくは、モディコーラへ落ち込むような大きな斜面を横切る道である。なだらかな降り道が遠く稜線の彼方まで続いている。のんびりと歩む牛に会う。天秤をかついだ商人の群れに会う。昨日は全く合わなかったロバの隊商に会う。名残惜しいウィンチュリーをかえりみる。
 更に目を転じて右にやるとモディコーラ越しの眼下にランドルンの部落が、縞模様の段々畑が逆光線で光って見える。
  2、3軒の家のあるキムセで小休止、ミネラルウォター40 ルピ買い入れ、喉が乾いてチャイが美味しい。 道沿いの家屋、老婆が暗い部屋で機を織っている。一端を腰に結び付け、白い上糸、下糸を上手に操りヒを通し手前に織り込んでいく。ビデオカメラに納めさせて貰う。帰ろうとすると「ルピ」と老婆の声、只撮りを戒められた気持ちがし、ルピ札を渡して別れた。
休止の後はモディコーラへの急降下である。降りても降りても階段の道はどこまでも続く、
汗が背中を、顔をつたう。ガンドルンは2,000 メートル高度で快適だったが降りるほど真夏が厳しくなってくる。シャレーバザールだろうか、部落らしい所に着いた頃はザックを投げ出したいほど暑い。沢水を取り入れた樋が土手から突き出して小さな滝をつくっている。4人は次々にトイの前に、ある者は這いつくばって、頭を出し流れ落ちる水を浴びる。びっくりするほどの冷たさが気持ち良い。モディコーラ沿いの道は暑さとの戦いだった、水がしきりに欲しくなる。
 月桂樹の王冠宜しく、和田さんが小枝の葉っぱで頭を覆いバンダナでぴしりと決めている。現地人の男が大声で褒め言葉を投げながら通り過ぎていく。暑さでバテぎみの私に生島さんが小枝をナイフで切りとり杖を作ってくれる。友情を感ずる。
 やがて、沢を離れ単調な降りにはいると人家が見えてくる。ビレタンティだ。思いがけない早い到着に我々は驚いたり、喜んだり、12時までにはまだ時間があった。人家が多くなる、
やがて見慣れた石畳の道へと出る。ジャーマンベーカリーと看板のある店に入る。座ったテーブルはブルンディコーラに突き出した見晴らし台のようだ。日差しの強い河原で女子供が遊んでいる。彫りの深い美形の奥さんにパンケーキを注文する。10才くらいの娘がチャイポットを持ってくる。「美しい」思わず口に出るほど目の澄んだ、母親似だろうか、彫りの深い健康美に見とれた。子供はどこの国でも、瞳が澄んでいて、美しい。


  水遊びと見えたが洗濯をしている女性もいる。大きな石の上に洗濯ものを置き、足で何度も何度も踏みつけている。踏みつけて、叩いたりしている。乱暴な洗濯だ。洗濯ものは岩の上に広げる、帰る頃には乾いているのだろう。我々も体を洗い、洗濯に次々に河原に出る。Tシャツの汗を揉みだし洗い、絞って岩の上に広げる。ここで大休止をした我々は車の通る舗装道路ぎわのニュブリッジまで一息の頑張りでトレッキングは終了した。

         





































06 ポカラの観光  5月 4日5日

 バス停まで登ると予定通り車の客引きに会う。600 ルピーの相場を知っていた私たちは相手の提示を頑強にそこまで下げさせた。車は乗車席二列のトラックで白人を含む現地人10 名前後が荷台に乗り、我々4人は椅子席の待遇だった。荷台乗車で良いと言えばもっと経費を安くする事が出来るのだった。車はルムレ、カーレと尾根道を登る。結構バスとすれ違う。ノーダラのパーミッショ
ンも人任せにしないで自分で済ませ、1銭も金の要らない事を確認した。来る時の30日は運転手がここで20ドルを請求したのだ。見慣れた尾根をどんどん降りダンプスからの道と合流する辺りで平地になる、ここの交通料のチエックポイントで今日の運転手はオレンジ色の札、20ルピを支払った。我々はここで20ドル支払った。1,000 ルピである。自分のアホらしさを口
に出すまいと澄ました顔で通過する。ポカラの街が近づくにしたがい山から街の空気に変わってくる。案内役の男が「私の叔父がペワ湖の近くでホテルを営っており安くするから」と話しかける。我々はカトマンズのフジゲストハウスからの紹介でニューポカラロッジに宿を決めている。その出迎えの宿の人の案内のタクシーに騙されたのだ。宿を変えてしまおうかと言う気持ちも起こるが、いや それは決着してからで断固交渉すべきだと言う意見にまとまりかけていた。「見るだけ見て後で決めてくれてもいい」とペワ湖北部のホテルを案内された。山のロッジに比べれば立派だが惹かれるものは無かった。ペワ湖南部のニューポカラロッジ迄約束通り送り届けて貰う。目抜き通りは大分人通りが多いが、一歩裏に入るとのんびりした避暑地である。
 5時頃だろうかまだ日は大分高い。ロッジの主人が迎え入れてくれる。フロントでタクシーの件を切り出す、空港に迎えに来た男が現れ、主人は姿を消してしまった。20歳ぐらいだろうか、スマートだがしっかりした若者に見える。主人の息子かサブマネージャーだろうか、生島さんがゆっくり説明した。40ドルは我々がした約束だから問題ない、交通チエックでボスに支払うと言った20ドルとトレッキングパーミッションでの20ドルは納得できない、我々はホテルのあなたが連れてきた人だから信用して彼に支払った、あなたにも責任はあるし、ポリスに訴えてもとつけ加えた。英語が全部理解させられたか紙に書いて説明もした。彼は驚き、困惑の表情で運転手にあって取り返すと言う。
 但し明日は車は全部休みになるので明後日になると言う。安心できない我々はフジゲストハウスに電話し事情を説明し、更にフジゲストハウス経由で彼に話して貰った。聞き終わった彼は運転手を捜して何度か電話をしたが運転手は捕まらず、タクシーコミッテーと交渉を始めた。明日はノーカーディで コミッテーも休業で明後日4時過ぎタクシーコミッテーで解決する事とする。比較的きれいな部屋に案内され、落ちつく、これで10ドルが相場のようだ。嫌な事は忘れて気分一新旅は楽しむものである。そうは思いながら騙されっぱなしは日本人の恥、日本人は騙せないと言う気概を示したい。明後日は頑張ろう、それまでは楽しもう。夕食にレイクサイドの繁華街に向かう。送り出す主人が「ノープロブレム、マイフレンド」と繰り返す。キャンドルの下でのビーフステーキは美味しかった。ビールを十分楽しみ乍ら、少し固めの肉だが、贅沢気分を満喫した。
 5月4日はノーカーディである。環境保全の意味か、タクシー業界のストライキと言う者もあったがポカラ全体に全く車はない。乗る者は市民からも避難を浴びるそうだ。この日はタクシーの件もありホテルを変える事にしていた。自転車でレイクサイドから市内を見学、蛇使いがみられたり、のんびりした避暑地である。
空港前のインホメイションセンターでホテルを探しエアコンも付いていると言うシティアンナプルナホテルに決める。広い庭に白いテーブルを配したゆったりしたホテルで天井に扇風機が廻っていた。エアコンはこの扇風機の事を言っているらしい。ツイン一室14ドルを12ドルに交渉で決まる。
ペ ワ 湖
 
午後ペワ湖に釣りに出かける。ホテルの紹介で釣りの名人だと言う若者と10才くらいの男の子が付いてくる。ボートの借り賃は240 ルピを200 ルピにまけさせて水のきれいな対岸の釣り場に向かう。こちらのダムサイドは女達が盛んに洗濯ものをしている。4、5メートル先で女が髪を洗っている。そこに牛がのんびりと水浴に入ってくる。
 ロープを引いて動かすドラム鑵
筏の渡しとすれ違うと釣り場も近い。水の澄んだ対岸に男の子はオール一本で上手に接岸した。仕掛は重りとハリスの簡単なもので、餌にチーズを使っている。釣りの名人は仕掛をつくってくれ、自分も場所を選んで糸を垂れる。生島、鈴木さんは釣り天狗の境地にはいる。和田さんは離れた上手でスイミングに疲れると、やがて岸辺に横たわり昼寝を決め込む。
北にサランラコットの丘が湖面に映えて美しい。あの辺りにアンナプルナやマチャプチャレが見えるわけだが5月のポカラは雨期も近く全くその姿を見せない。1時間も過ぎただろうか、名人もダメらしい。釣りを引き上げてデビットフォールに向かう事にする。ペワ湖の水面は静かに周りの森や町並みを映している、ピンクのサリーを付けた女性が幼児の手を引いてその美しい影を湖面に落としている。この絵をズームアップする。
 ペワ湖がダムでくびれ、川となったその下流で、その流れが地下に水没してしまうというデビットフォール(デビッドと言うアメリカ人がこの洞窟に落ちたと言う話しがある)は3キロほどダムサイドから南下する。小学校上学年の子供達が4、5人ほどついて来る、英語で話しかけてくる、4年生から英語を習っていると言う。片言日本語の出来る子が1人いて、チャンポンの会話で話が弾む。
 川の流れが岩肌を苔むして干上がった状態が続く、水はない。その上流に4、5メートルの縦穴洞窟へ流れが滝となって流れ込
み、その下、奥は見えない。更に上流は岩の間の水場で子供達と一緒に和田、生島さんが泳ぎ始めた。まっ逆さまに潜っても淵の底は何も見えないと和田さんが説明していた。
  ダムサイドの南は貧困な人達が商いをしているように見えた。天秤で計って売っている西瓜と瓜を買って帰る。ダムサイドでのビールとステーキは美味しかった。夕食後、裸電球に照らされた曼陀羅(仏画)の店が目につき立ち寄る。欲しいと思っていたので一枚奮発する。
 5日早朝、ホテルの庭、白いテーブルに買ってきた西瓜等並べる。熟し過ぎた感じだったが、期待した程の甘さはなかった。種類が少し違うようだ。瓜は皮をむいて塩を振りかけてかじる、結構な味だった。
ポカラ北部のヒンズーテンプルに自転車を借りて向かう。通勤通学の時間帯のせいか目抜き通りは賑やかだ。緩やかな登りを北へ北へと小1時間、ヒンズーテンプルに到着。サリーに身を包んだ女性が生贄に捧げるのだろうか、鶏を抱えている。逃げだそうと羽ばたく鶏の足をしっかり捕まえている。
ここではヒンズー教、ラマ教、仏教等問題なく並存しているようだ。
 ホテルへの帰り道市内の店ひやかす。手作りの織物、バッグや絨毯、セーターなど結構値引きに応じてくれる。刺繍も名物とかティシャツに工業用のミシンで希望の模様を入れてくれる。ヒマールの山、石楠花、ストーバの目玉等を注文する。言葉はゼスチャーと心臓だ、そう思いながら片言英語をしゃべったり、意外と日本語で押し通したりしたが結構通じる。経済的に強い国の言葉を、お客様になってくれる人達の言葉を一生懸命覚える努力をしている様に見えた。
英語コンプレックスは捨てるべきで日本語を国際化すべきだと、また世界がそれを認めてきている思った。大分時間をオーバーしたが自転車は2時間20ルピと鷹揚だ。ホテルに入りのんびりと昼寝をする。


        












































07 タクシーコミッティ  5月5日

 4時過ぎタクシーコミツテーでの交渉の時間である。3時過ぎニューポカラロッジのサブマネージャーに会い、タクシーでポカラ博物館の近くのタクシーコミッティへ。のどかな休憩場に何人かたむろしていると言う感じの事務所でコミッティのボスに会う。サブマネージャーが経過を説明する。我々は不法に取られた40ドルを要求した。タクシードライバーは来ていない。彼の雇い主は来ていたが、ドライバーの責任で私には関係ないと言った顔をしている。
タクシーコミッティは会社オーナーの協会のようだ。
出来るだけ仏頂面をして交渉に望む、大げさだが日本人の名誉にかけて、日本人は簡単に騙せる人種でないと知らせたかった。ボスやオーナー達は全てドライバー自身の責任で彼が弁済すべきで、そうすべく、手伝うと言った感じである。
彼が居なければどうしようもない、来る迄待つから連れてきて欲しいと言うが、昨日のノーカーディで彼は捕まらない。結局、明日7時半、ホテルに連れていくと言う事に決着した。明日は10時にポカラを発つ日である。又騙されたかと言う気持ち半々でコミッテーを引き上げた。タクシー料金はサブマネージャーに払わせた。
 6日、7時半を大分過ぎた頃、平屋のホテルのレストランにタクシーコミッティのボス、当のドライバーとそのオーナー達が現れた。ドライバーは青菜に塩でオーナーの影に隠れるようにしている。間違いなく彼だ。1,000 ルピを財布から出して我々に差し出した。10 ドルが500 ルピーだから、まだ半分である、あと1,000 ルピーを請求すると、彼は空っぽの財布を我々にみせた。承伏しかねる我々は残り1,000 ルピーを要求した。オーナーもボスも彼を助けようとしない。彼は、半分はニュポカラロッジの彼に渡したと、逃げ口上を呟く。サブマネージャーは今朝はカレツジに行くとかで同席していない。居ない者はどうしようもないと、ドライバーに要求を続ける。彼は金を工面するために席を離れた。
 出発1時間半前にはポカラ空港に行かねばならず、和田、鈴木さんの2人がホテルの車で先に行く事にし、生島さんと私が彼を待つ事にする。ホテルのオーナーらしい恰幅の良い男性が席に加わった。金持ちらしいおっとりした様子でテレビのスイッチを入れる。ネパールに来て初めて見るテレビで、社長は誇らしげに見入っている。やがてドライバーが現れ500 ルピー札を一枚我らに差し出し、これだけしかない、助けて下さいと言う目付きで我々を眺める。生島さんと目配せで妥協する。
 タクシードライバーとホテルの社長、全く手助けもしようとしない、貧富の差が公然と容認されている、階級の差を感じた。極悪人ではない小市民的な欲からしでかしてしまった罪に、すぐに立ち去るであろう旅人から逃げ去りもしなかったタクシードライバーが哀れにも感じられた。協会のボスに解決への協力を謝して、ホテルの車で空港に向かった。昨日の釣りの名人が運転している。恐い日本人に見えたのか、非常に丁寧に空港までとどけてくれた。
 空港前の食堂は2回目の利用である。母娘の作ってくれたラーメンを食べる、鍋焼きうどんのように煮込んだラーメンだが結構うまい。
 「いくら取り戻したか」空港のタクシー仲間で日本人がだまされた料金を取り戻した話が話題になっており、あなた達がその日本人かと聞かれたと生島さんが空港ロビーで話していた。日本人はだませないと思い知らす事が出来たかも知れない。


       






























08 カトアンヅ スワヤンブナート 5月6日

6日11時近く遅れたプロペラ機でカトマンズへ向かった。
「フジゲストハウス」のママさんはタクシーの件で我々に同情し、憤慨もし、もうあのホテルへは絶対紹介しませんと言っていた。
 街から西に2キロメートル、お山のてっぺんに聳える目玉のストーパ、スワヤンブナートことモンキィテンプル(写真)に参詣する。細い急な階段を登りきると大きなストーパが見える。
境内からはカトマンズが一望できる。大きな目玉、仏塔の雄大さに歴史を感ずる。猿が我が物顔に歩いている。ここの境内を生活の場にしている人々もいる。。

    スワヤンブナートのストーバ    














                      スワヤンブナート入り口寺院への上り階段














    スワヤンブナートの寺院 ストーパ




大きな曼陀羅が掲げてある奥に、ハッとするようなリアルな面、愁いの深い面、おどけた面等が壁一面に掲げてある。市内のショッピングを楽しみながら宿に戻る




  カトマンズを去る
「フジゲストハウス」のサロン(サロンと言っても八畳位の部屋に疲れたソファーが置いてある)は日本人のたまり場のようだ。カトマンズ最後の夜を楽しもうと若者の仲間には入った。サリドマイドだろうか、短い手でウィスキーをうまそうに呑みながら話しが弾んでいる。彼は中国からチベット経由でネパール入り、ジョムソン、タトパニと我らが眺めた「ダウラギリ」や「ニルギリ」の間を通って単独行で来たという。サリドマイドのハンディを背負って暗さなど全く無く、むしろ明るさと夢にふくらんだ顔をしている。言葉や体の障壁を乗り越えて、自分の力でチベット高地の異なる歴史や文化に挑むこの若者に拍手を贈りたい気持ちになる。自分の立場を振り替えてみるとこの年になりながら生き方の不足というか甘えを感ずる。ここの若者達と居ると楽しくなる、冒険心が刺激される。生きている事の、ここまで来た事の素晴らしさを再確認した。


         



































09 帰路 香 港 5月 7日

 7日香港に向けてカトマンズを発った。5時間余の空路は変わり無いが、香港時で更に2時間余を加えて午後4時半頃、ジェット機はビルの間を旋回するように着陸した。
 機内で知り合った三菱銀行の香港駐在の若者からコンピューターのハードソフトのショップが深水鋪にある事を聞いた。
 ベトナム料理の店は混雑している中で夕食を済ませ(写真)、地下鉄で深水鋪に向かう。間違えて一つ手前の地下鉄が二又に別れる駅(太子駅)で降りてしまった。尿意をもよおしたせいもあったが、いくら探してもトイレが見あたらない。駅の構内は無論、近くのビルに入って探してもない。やむなく暗闇の小公園で用を足した。そこで子供に用を足させている母親にあった。

 尋ねながらやっと着いた電脳ショップは8時が閉店で開いてる店はゲーム専門の店であった。ここはノウザン通りには見られない光景で、屋台が車道まで溢れ出し下町の人出でごつた返しであった。買い食いをしながら今回の旅は終わる。


         

































10 おわりに 

平成五年二月二十四日、肺癌のため国立ガンセンター東病院で右肺上葉の切除手術をした。スタートに先立って、主治医の永井完冶先生にネパールトレッキングの可否について伺った。「10 年ほど前、私もネパールに行った事があります。良い所ですから是非行ってらっしゃい。但し我慢出来ないような無理はしないで下さい」と太鼓判を押してもらった。
帰国後、定期検診時に何枚かの写真を持って永井先生に報告した。非常に喜んで下さり、10 年前の事を、ルクラから血液の調査のために医師団で訪ねた事を思い出されていた。
 今回の旅行は私に取って一つのチャレンジであった。肺癌の宣告に落ち込んだりしながら無事に手術を終え、これからが何か儲けものの人生に思えた。だから自分に取って楽しめる人生をおくろう、まわりの人も家族も含めて楽しくして行ける生き方をしよう、どうせ儲けの人生だからと思ったりもした。すごく気が楽にもなった。 また、体力がどこまで耐えられるか。鍛えて快復できるかと山歩きの魅力
を思い出した。ネパールトレッキングはそのチャレンジだった。4 日間の歩行に耐えられたと言うわずかな自信が私の快復力を強めると思う。同行の仲間に感謝したい。次はもう少し大きいチャレンジをしたい。                            トレッキング パーミット


         





































sityu 資 料

  行程一覧           鈴木 信夫 氏 
4月27日 香港へ 香港見学 キンバリーホテル泊
4月28日 香港よりカトマンズへ 香港見学
               富士ゲストホテル泊
4月29日 カトマンズ 市内見学
               富士ゲストハウス泊
4月30日 カトマンズよりポカラへ

  トレッキング行程
4月30日 ポカラ出発  9時55分 タクシー
   ビレタンティ     11時30分着
   ビレタンティ     11時50分出発
   マタターティ     13時00分着
   ラムガリ       14時00分着
   スーダメ       14時30分着 昼食
   ヒレー        15時30分着
   ティルケドンガ  16時00着 宿泊

5月 1日 ティルケドンガ 7時00分出発
   ウーレリ         8時45分着 30分休
   バンターティ       9時45分着
   ナンゲターティ    12時00分 昼食1時  
   ゴレパニ        15時30分着宿泊
              スーパービューロッジ泊
5月 2日 ゴレパニ 4時30分出発
    プーンヒル   5時45分着 展望
    ゴレパニ宿所 7時15分着
    ゴレパニ    8時00分出発
    バンタンティ 11時00分着
     タラパニ    12時50分着昼食 2時間
    ガンドルン  16時30分着 宿泊
             ミラノホテル泊
5月 3日 ガンドルン   8時〇〇分出発
    シャウレバザール 10時頃
    ビレタンテッィ   12時10分昼食 二時間
           水浴 洗濯
    ビレタンティ    14時00分出発トラック
    ポカラ        15時30分 宿泊
           ニュウ ポカラロッジホテル泊
5月 4日 ポカラ  宿所変更 ペワ湖遊覧
           シティアンナプルナホテル宿泊
5月 5日 ポカラ  市内サイクリング 
         タクシーコミッテッッィ交渉
           シティアンナプルナホテル宿泊
5月06日 ポカラよりカトマンズへモンキーテンプル
            富士ゲストハウス 宿泊
5月 7日 香港へ 深水舗 キンバリーホテル泊
5月 8日 成田へ

 食事一覧
4月30日 
 朝 チャイ、パン        カトマンズ空港
 昼 ヌードル(インスタントラーメン) スーダメ
 夜 卵フライ、チベットパン、玉葱スープ、
   南瓜スープ        テルケドンガ宿所
5月 1日 
 朝 卵フライ、チベットパン、チャーハン 宿所
 昼 チベットパン、玉葱スープ、チャイ一ポット、   
    卵野菜ヌードル    ナンゲタンテー
 夜 野菜、スパゲッテl、春巻き、玉葱スープ 
                  ゴレパニ宿所
5月 2日
 朝 チベットパン、卵フライ、チャイ二ポット 
                  ゴレパニ宿所
 昼 チベットパン、卵フライ、パンケーキ、焼そば
    スパゲッテー、チャイ二ポット   タラパニ
 夜 焼ヌードル、ご飯、野菜炒め、ガーリックスープ
    チャイ一ポット ガンドルン宿舎、
5月 3日
 朝 パンケーキ、チベットパン、ポテトスープ、チャイ1ポット   ガンドルン宿所
 昼 パンケーキ、ジャム、チャイ2ポット  ビレタンティ
 夜 ステーキ料理   ペワ湖畔レス


         






























tizu 地 図 詳細図

全 体 図
 左上方の地図外に
 ダウラギリーT峰
があります。


       


































123

詳 細 図

白点線が今回のトレッキングコース




 END

ネパール