昨年のダウラギリー、アンナプルナ南峰の魅力に惹かれ、今度は北チベットからチョモランマを見たいと言う衝動にかられ、中国チベットの計画が持ち上がった。メンバーは鈴木信夫、和田俊春、私の三人。期間は4月27日から連休一杯の5月6日までの10日間。目的はチョモランマを間近に展望したい事が第一、チベットの寺院や風俗を見る事、中国奥地の四川州。成都の見物の三つである。
チベットはガイド無しの個人旅行を認めていない事、ラサ、クンガル空港から5、600キロも奥地に入らねばならない事から、ガイドと車、ドライバーは付けなければならない、又チベットの首都ラサは富士山頂に近い高度、3600から700メートルの高度、行程中には5000メートル以上の高度を通過しなければならず、高山病の問題もあり、慣らしのために2、3日はラサに滞在し、すぐには強行軍には入れない。
和田、鈴木さんの二人が旅行社に当たり具体的な情報を仕入れる。何度かの打ち合わせで鈴木さんの案が皆の賛同を得て次のようにまとまる。
1日目 成田から空路、上海 成都 泊まり



成都は2000年も昔、諸葛孔明が蜀の国を守り、三国史の舞台となった、歴史の古い町である。曇天が多く、年間300日は太陽を見ないと言う。
28日、五時のモーニングコールに起こされる。テープレコーダーから中国語と英語で「おはよう御座います」が聞こえる。鈴木さんはチベットの子供達に上げるんだと空港売店で飴を買う。林さんの用意してくれた朝食の弁当を食べる。パサパサのパンは食欲が進まず、ジュウスで飲み込んだ。
空港の出口には中国人らしい小柄な22、3歳の男が名札の半紙を掲げて待っていた。このガイドは除賦と言う成都出身の若者である。運転手はドジと言い50歳くらい(チベット人は老て見えるので、本当はもっと若いかも知らない)。生粋のチベット人である。挨拶をし、荷物を積み込んで車の人となる。このトヨタのランドクルーザーはドジさんの愛車らしく、丁
1時間も走ったろうか、「磨崖佛」(国道に沿った岩山に描かれた大きな仏像)を見るために、道路脇に車を止めた。オレンジ色の仏様が彩りも鮮やかに描かれている。その山頂にはタルチョがはためいている。タルチョは竿の先に赤白青黄と色とりどりの布を
中心部が近ずくにつれて家並みが多くなるが、あまり高い建物はない。高台の上にエキゾチックな宮殿、ポタラ宮(写真)、その美しい姿だけが遠くから目立った。大通りのロータリー交差点には戦士の銅像や野牛の銅像が飾ってある。
体を慣らすために、ドジさんの車で、ラサの中心部の公設市場(バザール)に向かう。埃と垢で黒くなった顔は現地人と一目で分かる。自転車や幌を被った三輪リキシャが慣れた様子で右側を車と一緒に走っている。エンジン音を響かせて耕耘機が走る。
ラサの中心街、八角街に向かう。ここはチベットで一番大きなお寺、大昭寺(写真)がある。チベット各地から参拝者が絶えないとか、正門前は五体投地の参拝者が平伏している。台所用手袋のような布を両手にはめて前に差し出し、地面に平伏し、体を投げ出してうつ伏せになる。歩く余地の無
ポタラ宮へは100メートルを越す登りであるが、これを避けて車で上まで登れる紅宮から入ることにした。車を降りてわずかな登り
紅宮入り口
白宮(写真)はダライラマの住まい、事務
紅宮は歴代ダライ・ラマの霊廟を中心に仏殿が集まった、宗教儀礼の中心の場である。各階は四角い回廊を内側にして、それを囲んで多数の部屋が並び、ダライ・ラマのミイラ、数え切れない教典、仏像等の装飾に黄金や宝石をふんだんに使われていて、見る者を圧倒する。
曼陀羅を売っている店の周り、赤ん坊を背負った女が宝石をかざして買って下さいと跡を追ってくる。
ドジさんの待つランドクルーザーで大昭寺へ向かった。大昭寺前の広場は五色のタルチョで飾られている。その周りにタルチョの布を売る店、マニ車など仏具を売る店、宝石を売る店、骨董、日用品と露天商が並んでいる。
拝殿の灯明
麺類をと思うが無く、相手の薦める料理を食べた。中身はよく分からない、ジュウスだけは美味しかった。除さんはまだ独身で、ホテルの近く、自分の借家に帰っていった。英語を専攻した彼はつきあっている彼女を中国に残しているとの事である。
30日、ヒマラヤ見学ツアーのスタートの日である。朝食の粥を十分に食べて、酸素バッグを3つ、それに弁当を積み込んで九時半過ぎ、日光賓館をスタートした。ラサ川沿いの国道をヤルツァンポ川まで、来るとき通った馴染みの道をランドクルーザーはうなりを立てて走る。空港へと続く
2時間も進んだろうか、石と土で固めた外壁に囲まれた静かな民家の並ぶ部落の近くで小休止する。外壁の隅々に高くタルチョが色あせてはためいている。車の音を聞きつけて子供達が十数人集まってくる。

ヤルツァンポ川沿いの道を遡り、シュガツェに向けて再び走る。山並みが迫り、その間をゆったりと川は流れる。ランドクルーザーは少しづつ高度を上げている。
午後1時を回った頃、数件の部落に到着した(Gshuka 3800m)。食堂なのだろうか、土間のような部屋で弁当を使わせて貰う。パサパサしたパンと肉の唐揚げの弁当をお茶を貰って流し込むが、半分ほどしか食べられない。弁当の残りをテーブルに置いて外の出る。黒いヤルツァンポ川とグレイの山々、色のない世界がどこまでも続いて
小1時間も走ると、賑やかな乾ききった街に着いた。第1日目の終着点、294キロの街シュガツェ(日喀則shigatse
3900m)である。
城跡山の麓のバザール(市場)は賑わっていた。日用品が殆どで反物、宝石、アクセサリー、食品、ストーブから絨毯まで揃っている。羊の干物があばらまで乾ききってミイラの様だ。赤ん坊を背負った物乞いの女が「ハロー」と言いながら手を出して和田さんに付きまとっている。車は殆どなく、自転車が割と多い。
装飾品 仏具等も多い
午後7時を過ぎてもまだ日は残っている。シュガツェ賓館にチェックイン。
ホテルの敷地は広く、散歩に出る。ホテルの裏手半分が工事中で、石積みをしている若い女性がカメラを向けると笑顔でポーズを取ってくれる。
広いフロントは観光客で賑わっていた、我々の泊まった部屋は中央にチベット式の祭壇が飾られ、チベット絨毯のベットが二つ並んでいる。
朝7時、カメラを持ってホテルの最上階にあがる。タルシンポ寺が朝日に光る赤黒い山肌をバックに輝いて見える。シャッターを切る手が冷たく感じる。
5月1日、今日の目的地はテングリーである。ヒマラヤの見える所まで250キロ近くである。農耕地を過ぎると舗装のない国道が荒野の中へと続いていく。ヤルツァンポ川を離れて、車の振動は激しく、埃がウインドウに捲きあがってくる。農家の点在する部落にさしかかって車は工事通行止めのため迂回路の畑の中へ入っていく。横転するの
山が迫って上りにかかる。4500メートルのツォーラ峠の登りだ。結
木製のバンジョのようなギターをかき鳴らしながら、「どうぞ聞いて下さい」と言った表情で少年が近づいてくる。弛んでいるような弦を速いテンポできれいにハモりながらフォルクローレ調で歌う。

府軍の検閲らしい。バスに乗って上手に旅をしないとガイド無しのチベット旅行は無理のようだ。除さんとの会話の中でもじろじろと中を覗き込んでいる。検閲の係官はチベット人らしく、ドジさんが変わると問題なく通過できた。
寒くなってきたのは高度のせいだろうか、今回の旅で一番高度の高い5220メートルの峠に向かって期待に胸を弾ませながら車の揺れに任せて走る。澄んだ空に絹雲が糸を引いたように伸びる。なだらかになった山並みに沿って登ると段々空が開けてくる。峠だ。なだらかな峠だ。平原の一角に大きなタルチョ(祈祷の旗)の塊が見える。
和田さんが「おしっこが出ない」と言って車に戻ってきた。鈴木さんが付き添っても体がフラフラしている。高山病らしい。酸素バッグを吸わせて、早々に走り出す。意識朦朧の中和田さんは車に揺られている。
日暮れまで3時間もない。
5月2日 食事抜きで殊峰賓館を7時頃出発する。30分程走ると検問所で車を止められた。除さんは政府軍の詰所に、我々のパスポートを持って走る。しばらくして「私は残る事になりました。」と戻ってくる。人質なのか、書類不備なのか分からない。ネパールも近く検問も厳しいのだろう。ドジさんと4人は朝日で茶色に映える山に向かって埃を立てながら走る。
一つ一つ確認しよう。
更に視線を右に向けると、白い山並みが頭を出してくる。真っ白いピークは割と近く見える。更に南正面に純白の大きな山群、コモランマ(チョーオユ?)とドジさんが教えてくれる。大きく圧倒される様だ。
山病も忘れて、元気を取り戻した。



検問の手続きに結構時間がかるので橋のたもとで小用を足していると、河の向こうの荒野を十数頭の牛の群がのどかに進んでくる。大きな黒い山を背景に、静の中の動と言った感じでその一点が段々大きくなってきて、牛追いの声が聞こえるようだ。思わずシャッターを押す。
珠峰賓館に戻り、食事を済ませ、10時過ぎ、シュガッツェに向かって出発する。昨日チョモランマを見た部落に戻ったところで車を止め、最後の白い美しい三角錐を眺めた。白が昨日より一段と美しく、山は午前中が一番形の良い容姿を見せる。
徐々に高度を上げ、ギャムツォラが近くなると、川は氷と雪になり、それを遡る。ギャムツッォラ峠は相変わらずの強風と寒さだ。私の帽子が飛ばされて、どんどん転がって行く。ドジさんが走って、追いついた所は3,40bも先だった。和田さんは元気を取り戻した。
最高地点5220bの峠
ラッツェ到着にホットする。昼の食事をとり、ドジさんの知り合いの民家に招かれてバター茶をご馳走になる。除さんの心許ない通訳でも結構話が弾み、利発そうな五年生の少年まで話しに加わった。手帳にサインを求めるとチベット語で「ニイマツラ」と書いた。
5月3日 最後のドライブは往路を変えて、遠回りだがカロ.ラ峠越えにする。予定は往路と同じヤルツァンポ川沿いにラサに戻る予定だったが、これより100キロ余分になるので追加料金を350元ほど支払った。
小高く切り立った小山が見える。ギャンツェ城だ。ドジさんの口からギャンツェと聞こえる。ギャンツェ城は20世紀初頭、植民地支配の英国(英領インド軍)と勇敢に戦った城である。この町は大僧院パンコル.チョデの門前町として栄えた町でもある。
農耕風景
女性が物珍しげに通り過ぎる。埃と垢焼けした顔は年齢より大分老けて見える。そう言えば我々もラサを発って以来一度もシャワーを浴びていないが、湿度が少ないせいか、さっぱりしていて不快感はない。鈴木さんが写真を一緒に撮りたいと手振りで話すと、恥ず
ギャンツェの中心街の十字路を右に曲がり、セメント工場の埃の中を登りにかかる。建設中の道路は川に降りたり、悪路をあえぐように登る。カロラ峠への道である。



30分も走ると目の前が急に開ける。カロ・ラ峠(5,100m)だ。カロ・ラ峠は平原状のギャムツォラ峠と違い、圧倒されるような山に囲まれた峠だ。黒一色の山肌に羊が数頭群れている。その上にそそり立つ純白の山、景色に圧倒され、続けざまにシャッターを切る。

タルチョが強風にはためき、羊追いだろうか、駕篭を背負った農夫が佇んでいる。時計は一時を廻っている。乾ききった風が冷たく鼻を突く。寒さにこらえきれず、温かい車中に戻る。
ナルカンツエ(4,500m)は小さな村だ。道路に人影はない。

子供達が大勢いて、建物の門には希壱小学校とある。車も滅多に通らないせいか、物珍しく集まってくる。和田さんがキャンデイを差し出しても警戒してか受け取らない。先生らしい女性がおり、躾けられているのだろう。
車はヤムドウク湖を巻くようにして走る。1時間に1,2台、すれ違うトラックがもうもうと土煙を上げて走っていく。
車はスピードを上げ、ヤルツアンポ川に沿って、舗装道路を走る。クンガ空港への道を右に分け、左に橋を渡ると、ラサに着いたような気分になる。磨崖佛を過ぎてラサへの道は、緑のない世界を走ったせいか、四日前より緑が濃くなったように思える。耕耘機やトラックの往来が激しくなってくる。
5月5日早朝六時まだ薄暗い中を、ドジの車でクンガ空港へ百キロを走る。会話は通じないがドジはすっかり身内気分だ。思えば、三人でランドクルーザーを借り切り、自分達の選んだコースでのヒマラヤ展望はスリルもあった。累計で1200キロ近くをを踏破したことになる。ギャンツェ周りのカロラ峠はすばらしかった。
午前11時到着、成都のガイドは30歳近い女性、劉 計能さんと馴染みのドライバー陳さんが迎えに出ていた。この町は相変わらずの曇天である。
武候祠に向かう途中、刺繍工場に立ち寄る。透けるような絹の布に細い糸で色鮮やかに牡丹とか鯉の刺繍が縫われていく。真鯉が黒く刺繍されその裏は緋鯉になっている。表と裏が見事に色分けされた刺繍の美しさに感動する。
早朝発のフライトで上海に向かう。李さんという背の高い青年がTシャツ姿で我々を迎えてくれた。名古屋で1年間カラオケバーで働いていたとか、日本語は全く心配なかった。宿所の上海賓館に荷物を
予園商場は上海一の庭園、予園の入り口にある大きな商店街である。中国風の建物で、中にあらゆる商品が揃っている。予園は華東の名園と言われ、池を配して、甍の並びが美しく、柱や軒は朱色に染められ、いかにも中国風の建物である。
李さんは最近の中国について、国営事業は官僚化して熱意が無くて駄目、民営事業がお互いに競争して優れていること、一方民意は経済優先で道徳が低下し、金さえ儲かればと言う考えが蔓延していることを嘆いていた。日本も人ごとではない。彼の本業は高校の体育教師で、アルバイトで観光ガイドをしているという。新婚
バックマージンがあるせいか、ガイドは知り合いの店で土産物を買わせる。お世話になるのだからと一時間ほどつきあう。結構欲しい物があり、買わされてしまう。
予園予園
大廈飯店で夕食を済ませ、南京東路を西に向けて李さんと四人で散策するが、八時はまだまだ大変な人混みである。