00   チベット 紀行 平成7年4月27日〜5月6日

目 次
 1.序   7.ヒマラヤ展望
 2.成都  8.帰路 シュガツェ.
 3.チベット  9.ギャンツェ
 4.ラサ市内見学 10.カロラ峠
  4.1 ポタラ宮 11.帰路へ
  4.2 大昭寺 12.クンガル空港.
 5.シュガツェへの道 13.成 都
  5.1 シュガツェ 14.上海へ
 6.テングリーへの道
  6.1 ラッツェ
  6.2 ギャムツォーラ
  6.3 シーカル  15.地図



















01  序

 昨年のダウラギリー、アンナプルナ南峰の魅力に惹かれ、今度は北チベットからチョモランマを見たいと言う衝動にかられ、中国チベットの計画が持ち上がった。メンバーは鈴木信夫、和田俊春、私の三人。期間は4月27日から連休一杯の5月6日までの10日間。目的はチョモランマを間近に展望したい事が第一、チベットの寺院や風俗を見る事、中国奥地の四川州。成都の見物の三つである。
 チベットはガイド無しの個人旅行を認めていない事、ラサ、クンガル空港から5、600キロも奥地に入らねばならない事から、ガイドと車、ドライバーは付けなければならない、又チベットの首都ラサは富士山頂に近い高度、3600から700メートルの高度、行程中には5000メートル以上の高度を通過しなければならず、高山病の問題もあり、慣らしのために2、3日はラサに滞在し、すぐには強行軍には入れない。
 和田、鈴木さんの二人が旅行社に当たり具体的な情報を仕入れる。何度かの打ち合わせで鈴木さんの案が皆の賛同を得て次のようにまとまる。
 1日目 成田から空路、上海 成都 泊まり
 2日目 成都から空路 チベット、ラサへ休養
 3日目 ラサにて一日中慣らし見物
 4日目 ラサから車でシュガツェへ約300キロ シェガツェ見学 泊まり
 5日目 シュガツェから車でテングリーへ 約270キロ ヒマラヤ展望 泊
 6日目 ヒマラヤ展望 テングリーから車で シュガツェへ 約300キロ
 7日目 シガツェから車でカロラ峠経由ラサへ 約400キロ
 8日目 ラサから空路 成都へ 成都見物
 9日目 成都から空路上海へ 上海見物
10日目 上海から空路 成田へ         
旅行社にはオプションツアーとして申し込んだ。最終的に選んだ秋葉原の東方見聞社の峯田社長は、この行程計画はわが社のツアーコースに利用したいと惚れ込んでいた事を鈴木さんが話していた。

































02 成 都 平成7年4月27日 

 東方見聞社に食事の手配まで一括任せたので、空港 ホテル 現地での車の手配など全くなく気楽な旅となった。
 初日4月27日 予定通り現地時間12時40分上海到着。現地のガイドが我々の名前を書いた半紙を掲げて待っていた。空港内で一万円を人民元990元に替えてから出て行ったので少し遅れて不満げに見えた。
 ワゴン車まで荷物を運び車内に落ち着くと、除と名乗るガイドは絨毯工場と2、3の候補地をあげてどちらにするか尋ねた。
上海の西、空港の近くにある絨毯工場へ渋滞の虹橋路を右側通行でいらいらしながら進む。上海への一本道だからここしか通れず仕方がないようだ。動物園を越えて右に曲がりしばらくして絨毯工場に到着、何のことはない観光客相手の絨毯売場、75000円の絨毯をしきりに薦める。宝石、象牙細工等のショッピングセンターにも立ち寄り、4時、新しい未開通の高速道路を通り空港に向かった。ガイドは店と協定しており買い物を多くする客が彼らにとって上得意のようだ。

 上海から2時間余で成都着、8時だと言うのにまだ明るい。成都は四川州の中心、盆地で緑の多い農業都市で山梨県の甲府と姉妹都市になっている。
 「私は2年間甲府にいました。」と女性ガイドの林健さんは20歳代の若々しい瞳で説明した。運転手の陳さんも愛想がいい。
 成都は2000年も昔、諸葛孔明が蜀の国を守り、三国史の舞台となった、歴史の古い町である。曇天が多く、年間300日は太陽を見ないと言う。 
  本場の料理を体育館の近くのレストランで食べる。味付けは少し辛いが美味しく、林、陳さんを含めて5人、ビールに楽しいときが過ぎた。彼女の話によると若者の一般的な給与は日本円
で5000円くらい、10,000円は相当高給取りで日本語の堪能な彼女の給与はそれに近いようだ。林さんの属する四川海外富長旅行社が今回の旅行の中国での総受託会社で、この会社からガイド等は上海、チベット、ラサの旅行社に委託されている。5月5日のガイドは都合で別の女性に代わるとか、残念である。午後10時、街の南東部にある成都飯店に落ち着いた。



































03 チベット  平成7年4月28日

  28日、五時のモーニングコールに起こされる。テープレコーダーから中国語と英語で「おはよう御座います」が聞こえる。鈴木さんはチベットの子供達に上げるんだと空港売店で飴を買う。林さんの用意してくれた朝食の弁当を食べる。パサパサのパンは食欲が進まず、ジュウスで飲み込んだ。
 7時、中国西南航空の双発ジェットは、西に向けて成都を飛び立った。濃い雲を越えて雲海の上へ。1時間もすると、遙か下にどこまでも続く雲海の中から、削り取ったような厳しい氷の山々が見えてきた。まるで墨絵の世界だ。チベットの山岳地帯はまるでこの世の物とは想えない素晴らしさで我々を興奮させる。南西の山々は「ヒマラヤかもね」と鈴木さん。朝日に映
えてピンクに輝いている。
 やがてジェット機は高度を下げ、全く緑のない禿げ山の間をクンガル空港えと滑り込んだ。空港には着陸機以外に機体はない。雲一つない青空が
灰色に見える。荒涼とした山々が周りを囲んでいる。黄土高原である。禿げ山の一夜はこんな感じの曲かなと突然思い出す。黄色の袈裟を着た僧侶が数人たむろして、ネパールの僧を思い出させる。
 空港の出口には中国人らしい小柄な22、3歳の男が名札の半紙を掲げて待っていた。このガイドは除賦と言う成都出身の若者である。運転手はドジと言い50歳くらい(チベット人は老て見えるので、本当はもっと若いかも知らない)。生粋のチベット人である。挨拶をし、荷物を積み込んで車の人となる。このトヨタのランドクルーザーはドジさんの愛車らしく、丁
寧に窓を拭いたりしている。もう1人 スラッとした中国人が乗り込み、除さんより上手な日本語で話しかけるので彼の方が中心に話が弾んでしまう。が彼は我々のガイドではなくシュガツェ旅行社の曽撲と言う単なる同乗者だ。
 話が弾みながらヤルツァンポ川をさかのぼる。この川は延々とブータンを周りブラマプト川となり、インド、バングラデシュを流れ、最後にガンジスに

合流しベンガル湾にそそいでいる。街路樹らしい緑はわずかで、耕地らしいところも乾いた土色、ヤルツァンポ川は黒い流れを悠々とモノクロの世界に入ったようだ。

やがてヤルツァンポの橋を渡り支流のラサ川沿いに舗装道路は北東へ進む。舗装とは名ばかりでカメラが壊れるのではないかと思うほど車は揺れる。和田さんの旅行鞄は大きくへこんでしまった。ドジさんは70キロのスピードで警笛を鳴らしながらガタピシのトラックを追い越していく。

  ドジさんと愛車「ランドクルーザー」
 1時間も走ったろうか、「磨崖佛」(国道に沿った岩山に描かれた大きな仏像)を見るために、道路脇に車を止めた。オレンジ色の仏様が彩りも鮮やかに描かれている。その山頂にはタルチョがはためいている。タルチョは竿の先に赤白青黄と色とりどりの布を
旗のようになびかせた仏教祈祷のシンボルである。 家の屋根の上や峠などタルチョが掲げられている。
 日照りの強い乾いた道路をのろのろとあえぎながらトラックが走る。ランドクルーザーはそれを追い越して走る。ラサに近づくと渋滞がひどくなる。
ドジさんは元気の良い運転で渋滞を右から追い越していく。更に工場内の敷地を近道して走る。聞けばこのセメント工場はドジさんが昔勤めていたとか。
中心部が近ずくにつれて家並みが多くなるが、あまり高い建物はない。高台の上にエキゾチックな宮殿、ポタラ宮(写真)、その美しい姿だけが遠くから目立った。大通りのロータリー交差点には戦士の銅像や野牛の銅像が飾ってある。
 中心部を過ぎて、西南部にラサの宿、日光賓館がある。正午過ぎチェックインを済ませて、ホテルの
レストランで食事をとる。小柄な除さんから四川料理の説明を聞きながら、食事を進めるが、疲れからか何となくボヤッとした感じて食欲がない。どうやら軽い高山病に罹ったようだ。編み下げ髪のウエイトレスは「シェシェ」と言っても通じないのか無口を通している。
 フロントの女性は英語も中国語も通じないので除さんだけが頼りだ。二階に私、一階に和田さんと鈴木さんが入る。3600メートルは富士山の頂上に近い。二階の部屋に行く階段も息が切れるのでゆっくり登る。歩くことも極力
ゆっくりするように意識する。





















04 ラサ市内見学 平成7年4月28日

 体を慣らすために、ドジさんの車で、ラサの中心部の公設市場(バザール)に向かう。埃と垢で黒くなった顔は現地人と一目で分かる。自転車や幌を被った三輪リキシャが慣れた様子で右側を車と一緒に走っている。エンジン音を響かせて耕耘機が走る。
耕耘機は自家用車並である。スーパーマーケットのようなバザールは商品展示も雑で宝石やら日用品やら、何となく粗悪品に見える。けだるい感じを押さえて、ポタラ宮の前の公園に向かう。高く聳えるポタラ宮は小高い一つの山がお城そのもので、左がえんじ色の紅宮、右が白に染められた白宮
と神々しい感じだ。ここが政治宗教の最高権威者だったダラ・イラマの居城だった所である。現在チベットは中国政府に解放され(中国はそういっている)ダライ・ラマと高僧一族はインドに亡命して不在である。公園の中は工事中で乱雑さをさけて進む。
 ラサの中心街、八角街に向かう。ここはチベットで一番大きなお寺、大昭寺(写真)がある。チベット各地から参拝者が絶えないとか、正門前は五体投地の参拝者が平伏している。台所用手袋のような布を両手にはめて前に差し出し、地面に平伏し、体を投げ出してうつ伏せになる。歩く余地の無
いほどのにぎわいだ。前の大きな広場には色鮮やかなタルチョ(祈祷の旗)がひらめき、露天商で賑わっている。チベット人が良くかぶっているソフトのような帽子を和田さんが買った。よく似合う。2時間ほどの散歩でホテルに引き上げる。

大昭寺参拝に来た人々か?
        広場で休憩している。

  午後の七時はまだ明るい。ホテルのレストランで食事、ご飯が少し黒っぽくパサパサで食欲が出ない。四川料理と言うが大分日本とは味付けが違うようだ。高山病を治すには「水を沢山飲んで下さい」と除さんは言う。お茶を何杯か飲み、ミネラルウオターを2本仕入れ部屋に引き上げたたが頭
痛がひどく早々にベッドにもぐり込んだ。狭い洞窟に押し込められたように呼吸が苦しくなり、目を覚ます。まだ一時間も寝ていない。おしっこに立ったが頭痛がひどい。鈴木さんがフロントから酸素バックを買ってきてくれ、ビニールの酸素吸入器を鼻に差し込む。腹式呼吸で何度か深呼吸をする間に眠りにはいる。洞窟の中の息苦しさと暑さで又目を覚ます。これが高山病かとまんじりともせず長い一夜を過ごした。やはり肺癌の手術が、肺機能の低下が高所に対応出来ないのだろうか。
 29日の朝はお粥が出て、これに持参の梅干しを入れると懐かしい日本の味になる。三膳ほど平らげて元気になる。偏頭痛は残るがこれなら成都に戻らなくてもすみそうだ。和田さんと鈴木さんは元気だ。


































0401 ポタラ宮  平成7年4月29日

  ポタラ宮へは100メートルを越す登りであるが、これを避けて車で上まで登れる紅宮から入ることにした。車を降りてわずかな登り
をゆっくりと息を整えながら紅宮入り口へ進み、見上げるエンジ色の壁をくぐるように中に入る。
  暗さに目が慣れると木造と漆喰の廊下が部屋をつないでいる。
仏像は日本で見るよりも色鮮やかで数が多いのに驚かされる。「お釈迦様と弟子達ね」除さんは説明を加えながら進む。
 チベット仏教は密教仏教で輪廻転生の思想が定着している。チベットの法王ダライ・ラマはポタラ宮に住み、宗教行事や政治を司る。後継者には代々ダライ・ラマの生まれ変わりがなることになっている。法王が亡くなった場合必ず生まれ変わりがどこかに生まれる。彼が次のダライ
・ラマとなり法王としての教育を受ける。政治宗教が一体で参謀の高僧がこれらを司る。このようなダライ・ラマ体制は300年も続いている。
紅宮入り口







 1951年、中国政府によりチベットは自治区として解放(中国支配?)され、現ダライ・ラマ14世は高僧を引き連れてインドに亡命している。現在でも密教思想は根強く残っていると思われるし、チベット人がこのような中国支配を歓迎しているかどうかは分からない。
  白宮(写真)はダライラマの住まい、事務
所、会議室等いわゆる政庁の場である。ダライラマ
の居室はそのまま残っているが生活の匂いはない。街を見下ろしながら13階の白宮を降りると、革命展覧館の公園に出る。降りるほど、まばゆく仰ぎ見る白宮の偉大さ、高さが思い知らされる。   

 紅宮は歴代ダライ・ラマの霊廟を中心に仏殿が集まった、宗教儀礼の中心の場である。各階は四角い回廊を内側にして、それを囲んで多数の部屋が並び、ダライ・ラマのミイラ、数え切れない教典、仏像等の装飾に黄金や宝石をふんだんに使われていて、見る者を圧倒する。
 屋上の広場は太陽で明るく、そこは東洋人が多く見物客で賑わっていた。雲一つない青空の下ラサの市街が一望できる。
    南にラサ川、その奥に禿げ茶びた山々、ラサは人口18万人あまり広くない街だ。
 曼陀羅を売っている店の周り、赤ん坊を背負った女が宝石をかざして買って下さいと跡を追ってくる。






























0402 大昭寺  平成7年4月29日

 ドジさんの待つランドクルーザーで大昭寺へ向かった。大昭寺前の広場は五色のタルチョで飾られている。その周りにタルチョの布を売る店、マニ車など仏具を売る店、宝石を売る店、骨董、日用品と露天商が並んでいる。
 門前の五体投地礼拝の
間をぬうようにして正門より本殿にはいる。ものすごい数の灯明が羊の脂を臭わせながら、拝殿を明るく埋め尽くしている。回廊にはバケツ位のマニ車が本殿を取り囲んでいる。マニ車ひとまわしで一教典を読んだ分の御利益があるとか。除
さんの交渉で拝殿の中を見ることが出来た。大きなカラフルな仏像が二体並んでいる。この本殿(ジョカン部)を取り囲むように薬師堂、観音堂等が並んでいる。薄暗くて中の仏はよく見えない。
 中庭から二階に上ると一転して明るい空のもとラサの街が見渡せる。エンジ色の袈裟を着た僧侶が3,4人問答をしている。禅問答と違って相手の手を握ったりのんびりした感じの問答だ。
露天商でミニチュアのマニ車(40元)とタルチョの白布(5元)を買ってホテルに戻る。
  宝石を買いたいと鈴木さんの申し出でラサホリデイ・インに行く。ここは日光賓館に比べ大分高級なホテルで、金持ち相手の商品が多い。
大通りで荷物を満載したトラックに二台ほどであった。日本のチョモランマ登山隊の荷物であると、ドジさんから除さんを通じて聞かされる。日大アタック隊で、帰国後テレビで見ることが出来た。
拝殿の灯明
夕方7時、運転手のドジさんを帰してから、果物が食べたくなり、除さんを連れて日光賓館近くの食品市場に立ち寄る。羊のあばら丸出しの肉やら、野菜、卵、ミカン等地面やら戸板のようなもの
に薄暗く並べてあった。ミカンの山から10個ほど天秤量りに掛け五元ほど支払い紙袋に詰めて貰う。ホテルで食べたが、保存が悪いのかあまり美味くなかった。薄闇の街を今日は外食にしようとレストランを探したが、家々が真っ暗だ。停電は非常に多いようだ。除さんが「ここが
よい」と言って立ち寄ったレストランは、女将が成都出身で元大学教授をしていたという。ここの店も停電で蝋燭を灯している。
  麺類をと思うが無く、相手の薦める料理を食べた。中身はよく分からない、ジュウスだけは美味しかった。除さんはまだ独身で、ホテルの近く、自分の借家に帰っていった。英語を専攻した彼はつきあっている彼女を中国に残しているとの事である。
2日目も圧迫された寝苦しい
夜が続いたが1日目より大分楽になった。


































05 シュガッツへの道 平成7年4月30日


 30日、ヒマラヤ見学ツアーのスタートの日である。朝食の粥を十分に食べて、酸素バッグを3つ、それに弁当を積み込んで九時半過ぎ、日光賓館をスタートした。ラサ川沿いの国道をヤルツァンポ川まで、来るとき通った馴染みの道をランドクルーザーはうなりを立てて走る。空港へと続く
道を左に見過ごし、形ばかりの舗装道路をヤルツァンポ川沿いに西へ西へと進む。車にはほどんと合わない。速度計は70キロを前後している。人家も消えてしばらく、黒い野牛の群に出会う。どこまで行
くのか広い広野を黙々と進む牛追いの姿に孤独を感じる。青黒く頂がわずかに雪で白い峰が前方にそそり立って美しい。
 2時間も進んだろうか、石と土で固めた外壁に囲まれた静かな民家の並ぶ部落の近くで小休止する。外壁の隅々に高くタルチョが色あせてはためいている。車の音を聞きつけて子供達が十数人集まってくる。
和田さんが用意した飴を配る。後から後から手を出す子供達、主婦らしい者まで手を出して集まってくる。

  道路一杯に広がる山羊の群が車を取り囲むようにして通り過ぎていく。羊追い一人、黒光の顔で後を追っていく。
 ヤルツァンポ川沿いの道を遡り、シュガツェに向けて再び走る。山並みが迫り、その間をゆったりと川は流れる。ランドクルーザーは少しづつ高度を上げている。
 午後1時を回った頃、数件の部落に到着した(Gshuka 3800m)。食堂なのだろうか、土間のような部屋で弁当を使わせて貰う。パサパサしたパンと肉の唐揚げの弁当をお茶を貰って流し込むが、半分ほどしか食べられない。弁当の残りをテーブルに置いて外の出る。黒いヤルツァンポ川とグレイの山々、色のない世界がどこまでも続いて
いる。トラックが駐車している。日本では廃車になっているような代物だ。フロントガラスが割れてガムテープで補修してあるのが痛ましい。車は少なく、数台の車しかすれ違っていないし、ほどんとがトラックだ。


































0501 シュガッツッェ 4月30日

 小1時間も走ると、賑やかな乾ききった街に着いた。第1日目の終着点、294キロの街シュガツェ(日喀則shigatse 3900m)である。
 この街はチベットではラサに次ぐ都市で人口45,000人。ヤルツァンポ川とニャンチュ川の合流点に開けた街である。シュガツェ賓館の前を通り宿を確認し、そのままタルシンポ寺に行った。ここはチベットで二番目のお寺でダライラ
マに次ぐ法王パンチェンラマが座主を勤めているが今は亡く次の生まれ変わりを捜していると言う。赤茶けた鉄色の山を背にこのお寺は黄金色に屋根を輝かせている。僧侶がたむろしているだけで
、人影はあまりない。四時を過ぎ、参観の時間を過ぎているので、中に入っての見学は出来なかった。
 城跡山の麓のバザール(市場)は賑わっていた。日用品が殆どで反物、宝石、アクセサリー、食品、ストーブから絨毯まで揃っている。羊の干物があばらまで乾ききってミイラの様だ。赤ん坊を背負った物乞いの女が「ハロー」と言いながら手を出して和田さんに付きまとっている。車は殆どなく、自転車が割と多い。
装飾品 仏具等も多い
午後7時を過ぎてもまだ日は残っている。シュガツェ賓館にチェックイン。







  ホテルの敷地は広く、散歩に出る。ホテルの裏手半分が工事中で、石積みをしている若い女性がカメラを向けると笑顔でポーズを取ってくれる。
  広いフロントは観光客で賑わっていた、我々の泊まった部屋は中央にチベット式の祭壇が飾られ、チベット絨毯のベットが二つ並んでいる。
レストランはバイキング式で好きな物が自由に食べられる。牛乳やらスープ等の汁物が食べやすい。気圧は低く寝苦しさは残るが、酸素を使わずに休んだ。お互いに大分慣れてきたようだ。
朝7時、カメラを持ってホテルの最上階にあがる。タルシンポ寺が朝日に光る赤黒い山肌をバックに輝いて見える。シャッターを切る手が冷たく感じる。




































06 テングリーへの道  5月 1日

 5月1日、今日の目的地はテングリーである。ヒマラヤの見える所まで250キロ近くである。農耕地を過ぎると舗装のない国道が荒野の中へと続いていく。ヤルツァンポ川を離れて、車の振動は激しく、埃がウインドウに捲きあがってくる。農家の点在する部落にさしかかって車は工事通行止めのため迂回路の畑の中へ入っていく。横転するの
ではないかと思うほど車体をねじりながら川を渡る。三十分も走ったろうか、やっと道路に這い上がることが出来た。
   山が迫って上りにかかる。4500メートルのツォーラ峠の登りだ。結
構迂回しながらやっとたどり着いた峠で一休みする。眼前は削り取ったような下り坂、その遙か先にかすかにラッツェの部落が見える。タルチョが強風にはためいて千切れそうだ。
寒さで長居は出来ない。早々に車に乗り込んだ。



































06 01 ラッツェ 5月 1日


 眼下に見渡せるラッツエの街が近づくにつれ工事中で道路が至る所で寸断され、田圃の中や、川の中をあえぎながら走らねばならない。舗装のない町並みの目抜き道路にやっとの思い出這い上がる。
 埃と垢がへばりついたような洋服を着た子供達が珍しげに
集まってきて離れない。
 
  12時過ぎに食堂にはいるが気圧のせいか食欲はない。餃子らしき物とパン、野菜が出る。汚れたガラス越しに子供達が中の料理を覗き込んでいる。戸のかわりの布の仕切をめくって外に出る。
木製のバンジョのようなギターをかき鳴らしながら、「どうぞ聞いて下さい」と言った表情で少年が近づいてくる。弛んでいるような弦を速いテンポできれいにハモりながらフォルクローレ調で歌う。
1角札を渡すと嬉しそうに歌いながらついてくる。
 
  茶色の山並みの彼方に純白の山が青空にくっきり浮かんでいる。ヒマラヤはまだ見えない。





川のように水浸しになった道路、体をくねらせてトラックが走ってくる。傷だらけのオンボロトラックが良く峠を越えて走ってこれたと感心する。




































0602 ギャムツオラ峠 5月 1日

  高度を少しづつ稼ぎながらランドクルーザーは砂利道を相変わらず時速70キロで走る。原野を1時間も走ったろうか、道路沿いにバラックが1軒あり、ゲイトが道を塞いでいる。埃に汚れた制服は政府軍の検閲らしい。バスに乗って上手に旅をしないとガイド無しのチベット旅行は無理のようだ。除さんとの会話の中でもじろじろと中を覗き込んでいる。検閲の係官はチベット人らしく、ドジさんが変わると問題なく通過できた。
 山が迫ってきて、谷間の勾配が段々きつくなってくる。ギャムツォラ峠は後一時間ぐらいとドジさんの話である。  寒くなってきたのは高度のせいだろうか、今回の旅で一番高度の高い5220メートルの峠に向かって期待に胸を弾ませながら車の揺れに任せて走る。澄んだ空に絹雲が糸を引いたように伸びる。なだらかになった山並みに沿って登ると段々空が開けてくる。峠だ。なだらかな峠だ。平原の一角に大きなタルチョ(祈祷の旗)の塊が見える。
車を止める。ギャムツォラ峠だ(写真上タルチョと政府軍歩哨)。タルチョが千切れるばかりにはためいている。マウンテンパーカーを羽織ってもじっとしていると、寒さで絶えきれなくなってくる。
   和田さんが「おしっこが出ない」と言って車に戻ってきた。鈴木さんが付き添っても体がフラフラしている。高山病らしい。酸素バッグを吸わせて、早々に走り出す。意識朦朧の中和田さんは車に揺られている。
 車の走る方向に川が流れ、緩い下りにはいる。川は雪と氷に覆われている。まだまだテングリーは遠い。時計は16時30分、中国時間でチベットは西の果てとはいえ、日暮れまで3時間もない。

人家が2軒ほどの部落に着いた時、ドジさんが「チョモランマが見える」と言う。西南の山並みの上に逆光で灰色の三角のピークが見える。チョモランマの見える所までとうとう来た。カメラに納めている間、また和田さんはおしっこに立ったが、無理のようだった。




































0603 シーカル 5月 1日

 だらだらの下りが平地になってしばらくして、車は国道から道を右に分け、午後6時近く野中の1軒家のビルに入る。珠峰賓館と書いてある。テングリーに着いたと除さんは言う。以外に早い到着だ。
高い天井のロビーは薄暗く、夕焼けのヒマラヤ展望に胸が弾むが、除さんにその気配が全くない。明日観られると言う。夕方と早朝のチョモランマの展望は素晴らしいだろうと期待して来たのに、明日1時間走ればテングリーで見られると除さんは言う。
 ...川はまだ渡っていないし、地図で確かめるとテングリーより遙か手前のシーカル(4350m)と言う町の入り口らしい。
 Edward Stanford の地図にはシーカルの所にニューテングリーと書いてある。この辺は広い意味でのテングリーだろうか。この先30キロの所にテングリーはあり、そこからしかヒマラヤは見えない。ここはヒマラヤの見えるテングリーではない事に間違いない・...とにかく明日早朝7時にヒマラヤの見える所まで行くことを約束して決着する。
 和田さんはまだおしっこが出ないし、気分もスッキリしないようだ。レストランの中に10名ほど日本人らしきツアー客が居たので、高山病の薬について聞いてみた。アルパインツアーのチョモランマ見学旅行のメンバーで、丸山さんと言う添乗員が「利尿剤で効くと思います」とダイヤモックスという薬を分けてくれた。部屋まで来てくれて、測定器を爪に挟み血液中の酸素濃度を測ってくれた。60パーセントと言う。肺ガンでガンセンターに入院した時のものと同じタイプで私の場合,99パーセントだったのを思い出し、一寸心配になった。「酸素量は少ないがまだ命に関わる事はない」と彼は言う。同じ日本人のせいか、ひとまず安心する。





































07 ヒマラヤ展望 平成7年5月 2日

  5月2日 食事抜きで殊峰賓館を7時頃出発する。30分程走ると検問所で車を止められた。除さんは政府軍の詰所に、我々のパスポートを持って走る。しばらくして「私は残る事になりました。」と戻ってくる。人質なのか、書類不備なのか分からない。ネパールも近く検問も厳しいのだろう。ドジさんと4人は朝日で茶色に映える山に向かって埃を立てながら走る。
朝げの煙り立つ部落を一つ越えて、また、しばらく走る。
 やがて山並みが開け、遠くに町が見えてくる。テングリーだ。テングリー右手南方の山並みの遠く奥に、純白な山が大きく聳えている。ヒマラヤだ。無人の広野の中、車を止める。
 一つ一つ確認しよう。
1番左、東南東にひときわ高い三角の山、チョモランマの白い肌が逆光で黒っぽく見える。ネパール ガンドルンで見た見上げるアンナプルナサウスの様な高度感は無いが壮大さ、横に広がる雄大さが限りない。じっとしてるとマウンテンパーカーを通して寒さが伝わってくる。
更に視線を右に向けると、白い山並みが頭を出してくる。真っ白いピークは割と近く見える。更に南正面に純白の大きな山群、コモランマ(チョーオユ?)とドジさんが教えてくれる。大きく圧倒される様だ。
 三脚を立て、300ミリレンズが引きつける。山容に夢中でシャッターを切る。ドジさんがファインダ

ーを覗いて間近に見える山々の迫力にに感動している。しばし時間を忘れる。ダウラギリーの様な切り立ったシャープさはないが、その雄大さに惹かれる。
    鈴木さんが「素晴らしい」を連発している。和田さんもいつしか高山病も忘れて、元気を取り戻した。
 満足感で帰りの車は軽い。橋を越えた所の検問所で除さんが待っていた。検問の手続きに結構時間がかるので橋のたもとで小用を足していると、河の向こうの荒野を十数頭の牛の群がのどかに進んでくる。大きな黒い山を背景に、静の中の動と言った感じでその一点が段々大きくなってきて、牛追いの声が聞こえるようだ。
   思わずシャッターを押す。
左から  鈴木 和田 栗原 ドジ

北西前方の山麓にテングリーの町並が白く横たわっている。



































08 帰路 シュガッツェ 5月 2日



満足感で帰りの車は軽い。橋を越えた所の検問所で除さんが待っていた。

検問所はトラックが行列を作っている。
山は黒から灰色で緑は全くない。
悠々とのどかな川の流れ。
  検問の手続きに結構時間がかるので橋のたもとで小用を足していると、河の向こうの荒野を十数頭の牛の群がのどかに進んでくる。大きな黒い山を背景に、静の中の動と言った感じでその一点が段々大きくなってきて、牛追いの声が聞こえるようだ。思わずシャッターを押す。
  珠峰賓館に戻り、食事を済ませ、10時過ぎ、シュガッツェに向かって出発する。昨日チョモランマを見た部落に戻ったところで車を止め、最後の白い美しい三角錐を眺めた。白が昨日より一段と美しく、山は午前中が一番形の良い容姿を見せる。
徐々に高度を上げ、ギャムツォラが近くなると、川は氷と雪になり、それを遡る。ギャムツッォラ峠は相変わらずの強風と寒さだ。私の帽子が飛ばされて、どんどん転がって行く。ドジさんが走って、追いついた所は3,40bも先だった。和田さんは元気を取り戻した。
    最高地点5220bの峠
  長居は無用と荒れた砂利道を下る。横切る小沢をバウンドして越えた途端、車がエンストして動かない。人里まで50キロはあるし、歩くことは考えられない。電気系統、プラグのスパーク検査、ポイントチェック、キャブレーターのノズル点検とドジさんは余念がない。不安がよぎる。ドジさんは最後にキャブレーターのノズルに息を吹き込
み、やっとエンジン始動にこぎ着けた。思わず拍手喝采する。
    ラッツェ到着にホットする。昼の食事をとり、ドジさんの知り合いの民家に招かれてバター茶をご馳走になる。除さんの心許ない通訳でも結構話が弾み、利発そうな五年生の少年まで話しに加わった。手帳にサインを求めるとチベット語で「ニイマツラ」と書いた。
敷いてある絨毯は奥さんの手織で、織り上げるのに1ヶ月はかかるそうだ。一畳位のものを分けて貰った。
 ドジさんのタイヤの修理やら車の点検で一時間を費やし、3時過ぎにラッツェを出る。
再び田圃やら川やら道無き道をほこりにまみれ、車に揺られながら1時間近くでツォーラの登りにかかる。もう1カ所寸断道路があると思うとうんざりする。尻の痛さと埃にまみれて、何とかこの難所を通過する頃は5時半近くになっていた。これを過ぎると原野の中をシュガッツェへ直線コース、6時半頃シュガッツェ賓館に到着した。


二度目の宿で大分ゆったり出来る。ロビーは大勢の観光客で前回よりにぎわっていた。売店でチベット石の小さな亀の置物を買ったり、今日のヒマラヤの興奮を話している間に夢の中へ。




































09 ギャンツェ 5月 3日

 5月3日 最後のドライブは往路を変えて、遠回りだがカロ.ラ峠越えにする。予定は往路と同じヤルツァンポ川沿いにラサに戻る予定だったが、これより100キロ余分になるので追加料金を350元ほど支払った。
 ホテル前に真っ赤で頑丈そうな大型バスが駐車している。正面にベンツのマークが輝いている。あの悪路の長旅では装甲車のようなバスも頷ける。
フロントの客も、民間資本の導入や経営の民主化が意外に早く浸透しているようだ。

  ランドクルーザーはのどかな田園地帯をギャンツェに向けて東南に走る。舗装はないけれど昨日よりは立派な道路である。民家の散在する平坦道路は1時間半も続く。馬を追って田圃を耕している風景に車を止める。そばで男の子がそれをじっと
見ている。農夫の赤いジャンパーが印象的で何枚かシャッターを切った。
 小高く切り立った小山が見える。ギャンツェ城だ。ドジさんの口からギャンツェと聞こえる。ギャンツェ城は20世紀初頭、植民地支配の英国(英領インド軍)と勇敢に戦った城である。この町は大僧院パンコル.チョデの門前町として栄えた町でもある。
農耕風景
女性が物珍しげに通り過ぎる。埃と垢焼けした顔は年齢より大分老けて見える。そう言えば我々もラサを発って以来一度もシャワーを浴びていないが、湿度が少ないせいか、さっぱりしていて不快感はない。鈴木さんが写真を一緒に撮りたいと手振りで話すと、恥ず
かしそうに笑いながら応じてくれる。人の良さを感じてほほえましい。
   ギャンツェの中心街の十字路を右に曲がり、セメント工場の埃の中を登りにかかる。建設中の道路は川に降りたり、悪路をあえぐように登る。カロラ峠への道である。



































10 カロ・ラ峠 5月 3日

 

タルチョのはためくスミナ峠(4,300m)で一休みする。
  遠く北東の彼方に雪の山が見える。地図によると、カロ・ラ峠のノジカンサ山(7,233m Nosinkangsa)の様だ。あそこを越えるとヤムドウク湖も近い。





行く先の遙か下手に、白い部落が見え、道はそちらへと続いている。


 
谷沿いの下り小一時間、二つ程山を越えると、先ほどの山が大分近づいて、雪の肌がよく見える。素晴らしい眺めにしばし車を止める。やがて道は登りに入る。尾根を巻きながら、長い登りが続く。雪が道路に迫ってくる。エンジンがうなりを上げ
、あえぐように登る。長い登りに小休止を取る。
 30分も走ると目の前が急に開ける。カロ・ラ峠(5,100m)だ。カロ・ラ峠は平原状のギャムツォラ峠と違い、圧倒されるような山に囲まれた峠だ。黒一色の山肌に羊が数頭群れている。その上にそそり立つ純白の山、景色に圧倒され、続けざまにシャッターを切る。
切り立った前面の黒い三角、その上を覆う雪が真っ白だ。これがノジカンサ山だろうか?
道端まで氷河が迫ってくる。









カロラ峠から見るノジカンサ山









タルチョが強風にはためき、羊追いだろうか、駕篭を背負った農夫が佇んでいる。時計は一時を廻っている。乾ききった風が冷たく鼻を突く。寒さにこらえきれず、温かい車中に戻る。
 ナルカンツェに向かう。

遙か前方下に光る湖が見える。ヤムドウク湖が近づき、昼食を求めて一気に降りる。




































11 帰路ラサへ 5月 3日

 ナルカンツエ(4,500m)は小さな村だ。道路に人影はない。
 澄んだコバルトブルーのヤムドウク湖が見えてきた。意外に小さい。この湖は神の湖としてチベット人に崇められ、これが涸れる時はチベット滅亡の時だと言われている。美しい対岸の山々を眺めながら、細い湖にそってランドクルーザーは走る。蒸発して塩分が多く、
その結晶だろうか、岸辺が白く続いている。
 
  遅い昼ですぐ食堂に入る。混み合っている中を空きテーブルを見つけ麺類を注文する。居酒屋と言った感じで、賑わっている。「チク、ニム、スム、シイ」ドジと除は数字の話をしているようだ。ミルクティで切り上げ、また車は走る。


 タルチョのはためく集落で小休止する。
 子供達が大勢いて、建物の門には希壱小学校とある。車も滅多に通らないせいか、物珍しく集まってくる。和田さんがキャンデイを差し出しても警戒してか受け取らない。先生らしい女性がおり、躾けられているのだろう。
 車はヤムドウク湖を巻くようにして走る。1時間に1,2台、すれ違うトラックがもうもうと土煙を上げて走っていく。
 四時近く、カンパラ峠への登りが蛇行しながら、高度を上げていく。ヤムドウク湖が大きくその全容を見せてくると、山々に細く入り組んだ湖は手をつなぎ合って結構大き
いのだ。どんどん高度を上げ、例の大きなタルチョがカンパラ峠(4,700m)であることを示している。

  車から降りるのが厭になる程風が強く吹いている。北にサマイの町が、その奥に低くヤルツアンポ川が流れていて、ラサも近く懐かしい。カンパラ峠は山の頂を越えていくような峠である。
 ジグザクの下りをサマイに向けて一気に千bも降る。右横手の山を指して「これが鳥葬の山
です」と除が説明する。険しい山で亡骸をこの山に置き、これを鳥が食べ、自然に帰すと言う。チベット人にとっては厳粛な行為で、観光客に見られる事を嫌っているようだ。
 車はスピードを上げ、ヤルツアンポ川に沿って、舗装道路を走る。クンガ空港への道を右に分け、左に橋を渡ると、ラサに着いたような気分になる。磨崖佛を過ぎてラサへの道は、緑のない世界を走ったせいか、四日前より緑が濃くなったように思える。耕耘機やトラックの往来が激しくなってくる。

 到着の安心感から会話が弾んでくる。
「明日は6時の出発ですね」和田さんが訪ねた。
「6時には着くでしょう」除の返事にびっくりする。
「明日の出発ですよ」確認するが、除は時間だけ理解できて、明日とか、出発を理解しないで、車の到着時間を言っている。お互いに顔を見合わせる。聞けば、除は英語が専門で、日本語は習い初めて6ヶ月だと白状した。今まで辻褄の合わない所もあったが、道理でとお互い納得し合う。
 除の彼女の話になり、重慶大学の英文科にいて、李と言う話から、色々話が進む、
「美味しい生活がしたい」
「美味しいものが食べたいんですか?」と聞くと生返事で濁す。
「贅沢な暮らしがしたいんだよ」と鈴木さん。
「そう、オーデオセットが欲しい。日本のもの優秀です」お金を貯めたい。彼はその為に一生懸命働いている。

ドジは右側をどんどん追い越していく。ポタラ宮が見えてきた。交差点の野牛の像を過ぎると間もなく日光賓館である。午後6時半過ぎ到着、ランドクルーザーのヒマラヤ展望のドライブは終わった。
レストランの四川料理も美味しく、夜もぐっすり眠った。



































12 クンガル空港  5月4日

  5月5日早朝六時まだ薄暗い中を、ドジの車でクンガ空港へ百キロを走る。会話は通じないがドジはすっかり身内気分だ。思えば、三人でランドクルーザーを借り切り、自分達の選んだコースでのヒマラヤ展望はスリルもあった。累計で1200キロ近くをを踏破したことになる。ギャンツェ周りのカロラ峠はすばらしかった。
危なっかしい日本語もどうやら乗り切って、よく頑張った除、2人に感謝しながら、空港ロビーで一時の別れを惜しんだ。

  満席の中華西南航空のジェット機は成都の向けて飛び立った。中国人が殆どで、顔立ちが日本人そっくり、会話を聞いて初めて中国人とわかる。機内食を丁寧に包んで持ち帰る人もいる。日本こういう時代があったのを思い出す。


















































13 成 都  5月4日

午前11時到着、成都のガイドは30歳近い女性、劉 計能さんと馴染みのドライバー陳さんが迎えに出ていた。この町は相変わらずの曇天である。
和田さんが高山病に悩まされた話をすると、
「成都の漢方薬はよく効くことで有名です。早速紹介します」とその足で漢方博物館と言う所に案内された。長い説明にうんざりした後、売り込みも熱心で、何にでも効くというお茶を1箱買った。和田さんは言い出しっぺ、500元ほどの薬を買わされた。
  我々は杜甫草堂と武候祠、二つの見学コースを申し入れた。成都の目抜き通りを杜甫草堂に向けて西に進む。結構渋滞していて、車の前を自転車が平気で横切り、交通信号は全く関係ない。劉さんの話では、国立の大きな施設がゴルフ場になったとか、ここにも民営化の波が押し寄せている。

  杜甫草堂は緑に囲まれた静かな公園の中にある。人出は多く、劉さんの説明に離れないようについて行く。ここは唐代の大詩人、杜甫が安史の乱を逃れて、西暦760年から4年間ほど住み、作詩活動をしたところで、竹林に囲まれた閑静なところである。杜甫はよく李白と比較されるが、李白の動に対して、静の詩人と言われると劉さんの説明がある。
 武候祠に向かう途中、刺繍工場に立ち寄る。透けるような絹の布に細い糸で色鮮やかに牡丹とか鯉の刺繍が縫われていく。真鯉が黒く刺繍されその裏は緋鯉になっている。表と裏が見事に色分けされた刺繍の美しさに感動する。
 武候祠の正面額には漢照烈廟とある。2000年もの昔の蜀漢時代、蜀の国を守った英雄達の廟である。三国志で有名な劉備や彼に仕えた文官、武官、諸葛亮明のカラフルな塑像が等身大で回廊一杯に飾られている。有名な文物として、文章、書法、石刻技術の優れた、いわゆる三絶の名の高い唐碑がある。裏手の観光売店では硯、墨、筆等、書の道具や唐碑の写しが売られている。それぞれ妻の土産としてなにがしか購入するが素人の見立てで無用の長物になっている。

   成都での夕食は富長旅遊公司のお別れパーティ、劉、陳さんと我々の5人の晩餐会である。和田さんが5000円で50度という地酒を買った。小さな猪口で一口、香りが強く、強烈に胃にしみて心地よい。
  9時過ぎ、宿所の成都飯店前の夜店に出かける。露天がずらりと並び、お祭りのような賑わいである。人にぶつかりかきわけながらのショッピングだ。衣料品、装身具、ベルト、ラジカセまで売っている。中国人バンドのカセットを20元で買う。品質は期待していなかったが結構楽しめる。




































14 上 海 5月5日

 早朝発のフライトで上海に向かう。李さんという背の高い青年がTシャツ姿で我々を迎えてくれた。名古屋で1年間カラオケバーで働いていたとか、日本語は全く心配なかった。宿所の上海賓館に荷物を
預け、国営のレストランでビールを飲みながら食事をとる。李さんは国営店は高いからとしきりに民間の店を勧める。
 黄色い壁に囲まれた玉佛寺は中に入ると、屋根瓦に飾りを付けた立派な寺院である。堂内には金ぴかの仏像(ミャンマーから運ばれた玉佛座像)が目に付き、それを参拝しながら一巡する。




玉佛寺の中
 予園商場は上海一の庭園、予園の入り口にある大きな商店街である。中国風の建物で、中にあらゆる商品が揃っている。予園は華東の名園と言われ、池を配して、甍の並びが美しく、柱や軒は朱色に染められ、いかにも中国風の建物である。

 黒く汚れた池を防水服を身に纏った作業員が胸まで浸かって清掃している。
 李さんは最近の中国について、国営事業は官僚化して熱意が無くて駄目、民営事業がお互いに競争して優れていること、一方民意は経済優先で道徳が低下し、金さえ儲かればと言う考えが蔓延していることを嘆いていた。日本も人ごとではない。彼の本業は高校の体育教師で、アルバイトで観光ガイドをしているという。新婚
の奥さんも教員をしている。池の畔の饅頭屋で蒸籠の蒸し上がるのを待って、餃子のような饅頭を食べる。空腹にはまあまあの味である。
 バックマージンがあるせいか、ガイドは知り合いの店で土産物を買わせる。お世話になるのだからと一時間ほどつきあう。結構欲しい物があり、買わされてしまう。

 テングリーの町をゆっくりできなかったのは残念であるが、早朝の緑のない広野での、その奥に見たヒマラヤは素晴らしかった。
チョモランマをこの目で見たことは記念すべき事で、第一の目的は達成できた。モノクロの高原を堪能出来てやはり来て良かった。除さんやドジさんとの交流も収穫だった。
                       予園予園
上海の李さんは「チベットは中国の果て、蛮族の住む所ですよ」よくそんな所に行きますね、と暗に軽蔑の気持ちをほのめかしていた。チベットは密教の地、未開の地でこれから解放されるべき土地と中国人は思っているのだろうか。
貧困と高度と寒気に耐えて、百キロぐらいの歩行は何とも思わず、聖地巡礼に向かう民族性、人の良い根気強さに何か惹かれる物を感ずる。言葉こそ通じないが、ドジさんの素朴な心情が懐かしい。科学や知性をひけらかすこともなく、何日も羊を追って生活している。
 5000bの標高を体験できたのも収穫の一つである。ラサ到着時、階段の息切れや倦怠感も、チョモランマを見た帰りには意識しなくなってしまった。酸素量の少ない所での体験は自信を持たせられる。
 チベットの文化遺産の偉大さ、ポタラ宮や寺院の素晴らしさに接することが出来たと思う。玄奘三蔵が遠くチベットを越え、インドから教典をもたらした、その経路を見る思いがした。



  黄浦公園は人出でごった返していた。黄浦江商船等の大きな船が往来し、対岸のテレビ塔は夕日に映えてその姿がライトアップで浮き上がっている。NECのネオン塔がその隣に派手に目立っている。
  大廈飯店で夕食を済ませ、南京東路を西に向けて李さんと四人で散策するが、八時はまだまだ大変な人混みである。
 第一百貨店をゆっくり回る。日本の家電製品も多く値段は少し安いようである。オーデォ、ビデオ関係に若者が賑わっている。


 サイレンを鳴らしながら黒塗りの車が10台近く走り過ぎる。「訪中の村山首相一行」だと李さんの説明がある。
 町並みを徒歩で楽しみながら、夜も更け11時頃、上海賓館の部屋にたどり着いた。
 五月六日、九時頃ホテルのバイキングで朝食を取る。見たことのある女性がレストランで日本人客を誘導している。成都のガイド林さんである。思わず声をかける。会話が弾み、彼女はチベット旅行の無事を喜んでくれた。


                    −終わり−















チベット紀行